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日蓮大聖人・池田大作

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全国女子部幹部会 最高の幸福は広布の人生に

1999.96.16 メッセージ集(池田大作全集第67巻)

前後
2  妻は、“未来部”の時に牧口先生にお会いし、先生の手づくりの“女子部”の出身である。
 また、戸田先生のもとで、女子部として、さらに草創の“ヤング・ミセス”としても、一生懸命に戦ってきた。
 ともあれ、牧口先生、戸田先生にお会いしたことが、どれほどすばらしいことであったか。
 青春時代から、学会活動に徹しゆくことが、どれほど誇り高き、無上道の歴史となることか。
 日々、偉大な使命に生き抜いておられる、大切な女子部の皆様である。
 私は、三十年先、五十年先の未来に、皆様が「世界市民」の模範として、「女性の世紀」の先駆者として仰がれ、これ以上ないという、福運と信頼と栄光の人生を闊歩していくであろうことを、確信している。
3  幸福とは何か
 ここで、「幸福」という命題について、少々、考えてみたい。
 人生の目的は、根本は「幸福」である。信心の目的も、また同じ「幸福」である。仏法の目的も、また「幸福」である。であるならば、「幸福」とは、いかなることか。
 ここに、重大な問題がある。古今東西、数多の人びとが必死に探究し続けながら、なお本源的に解明されていない課題といってよい。
 いくらお金があっても、不幸な人はたくさんいる。意地悪であったり、喧嘩ばかりの人もいる。
 たとえ、貧しくても、心が綺麗で、万物に美を発見する詩人のごとく、無量の幸福を味わう人もいるかもしれない。仮に、よく似た境遇の二人がいたとしても、お互いの幸・不幸の感じ方は決して同じではない。人生の実像は、まさに千差万別である。
 若くして、華やかで裕福そうに見えても、結婚して悲惨な侘しい境遇になってしまう人も、無数にいる。お雛様のように宮殿に入って、金の器のごはんを食べて、汚れのない豪華な服で着飾っているのが、幸福なのではない。
 それは、窮屈で、退屈で、幻で、虚像である。一番、幸福そうに見えるのに、その実体は、見栄であり、裏を返せば、一番、脆弱で、はかない。
4  苦難のなかで、人から見れば不幸のようでありながら、一幅の名画のごとき幸福境涯を、毅然と築いている方も、多々おられる。
 今月、SGIの香港文化会館で、中国建国五十周年を慶祝する「方召麐ほうしょうりん書画展」が開催された。
 この気高き芸術の母は、今年、八十五歳。特に、この三年間の作品は、新境地を開いた傑作として、ひときわ冴えわたっていると、絶賛されている。(=2006年2月、92歳で逝去)
 方召麐画伯は、夫に早く先立たれ、八人の小さな子供たちを女手一つで育てながら、清らかな泉のごとく、たゆみなく美の創造を続けてこられた。
 若き日の悲運を耐え抜いて、人の何倍も苦労を重ねた分、人の何倍も豊かな人生を送られる。一生の総仕上げの時に、偉大な生命の力を発揮できる――との、黄金の勝利の劇を示されている。
 順調な時ばかりでは、本当の幸福を実感できようはずがない。いわんや、安逸のなかに幸福の宝はない。奥深い山谷に、汗を流して分け入っていかなければ、幸福のダイヤモンドは採掘できない。賑やかな街で遊び、楽をしていては、決して採ることはできない。
5  スコットランドの有名な民衆詩人、ロバート・バーンズは、「幸福」についてこう謳っている。
 「もし幸福が其の座と中心を
 胸にもっていなかったならば、
 賢かろうと、金持ちだろうと、偉かろうと、
 到底幸福ではあり得ない。
 財宝も、快楽も、
 長く私どもを幸福にはせぬ。
 心こそ常に人の幸不幸を
 定むる機官だ」(『バーンズ詩集』中村為治訳、岩波文庫)
 要するに、いっさいの不幸も、幸福も、生命のなかに全部ある。
 まさしく、「心こそ大切なれ」なのである。
6  題目を唱えることが幸福の軌道
 大聖人は、「南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」と仰せである。
 題目を唱えることが、最高の幸福の軌道である。生活の根底に何を置くか、人生を生き抜く根本がどうであるかが、三世永遠にわたる幸福を決定する分かれ道なのである。南無妙法蓮華経と唱えること自体が、人間革命をし、福運を積んでいることになる。また、題目を唱えなければ、亡くなった方々への追善もできない。
7  「観心本尊抄」には「但仏界計り現じ難し」と仰せである。
 この「仏界」という真の幸福境涯を現じていくには、南無妙法蓮華経を唱え、法のため、人のため、社会のために行動していく以外にない。釈尊の仏法も、天台の仏法も、その志向する結論は、日蓮仏法と同じである。
 仏法では、慈悲をもった人が「幸福」なのである。「折伏」をする人が、一番、偉い人なのである。「慈悲」とは、言い換えれば「勇気」である。勇気をもって題目を唱え、法を弘めることが、慈悲であり、幸福なのである。
8  仏法に行き詰まりはない。私たちには、「無限の希望」の永遠の道があり、「生涯青春」の花の園がある。涸れることなき希望をわき出す根本として、「幸福の生命」を説く仏法をもっていることを決して忘れてはならない。
 現実は醜い。卑劣な人間も多い。悪人もいる。「悪世末法」であるゆえに、当然のことである。「悪口罵詈」「猶多怨嫉」は、経文通りであり、御書の通りである。
 正法流布の行動ゆえに、大難を受けながら、断固として勝ってきた学会は、「正義の中の正義」の団体である。この学会と共に、究極の「幸福の人生」「正しい青春」を生きゆく皆様は、聡明にすべてを鋭く見極め、何ものにも紛動されてはならない。
 「報恩抄」の「極楽百年の修行は穢土えどの一日の功徳に及ばず」との一節を、皆様は、深く拝し、命に刻んでいっていただきたい。
9  結びに、ニュージーランドの著名な女性作家、マンスフィールド女史の箴言を贈りたい。
 「私たちは、結局、私たち自身の教師にならなければなりません。それから逃げることはできません。私たちは自ずから勝ち抜かねばなりません」(S・J・カプラン『マンスフィールドとモダニストの小説の起源』大澤銀作訳、文化書房博文社)と。
 敬愛する、わが女子部の皆様に、「健康」あれ! 「希望」あれ! 「明朗」あれ! そして「勝利」あれ!
 (東京戸田記念講堂)

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