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日蓮大聖人・池田大作

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健康革命は会合革命から リーダーの心配りが同志を守る

「健康対話」(池田大作全集第66巻)

前後
6  一遍の題目にも限りない功徳が
 池田 なるほど。
 そもそも、祈りの深さは、題目の数や時間で決まるものではありません。
 御書には、「何遍唱えなさい」とか、「何時間あげなさい」とは、どこにも記されていない。むしろ、大聖人は、「題目を一遍唱えたならば、一切衆生の仏の生命が皆呼ばれて、ここに集まる」(御書四九八ページ、通解)、「題目を一遍唱える功徳は法華経を一部八巻を読む功徳と同じであり、十遍は十部、百遍は百部、千遍は千部読んだのと同じ功徳である」(御書四一一ページ、趣意)等と、一遍の題目にも、限りない功徳があると言われている。
 大切なのは題目をあげようという「心」です。その心が強くあれば、福運はついていくのです。
 小島 よく題目を一日に「十時間あげた」「八時間、唱えた」という話を会合等で、うかがうことがありますが……。
 池田 それは、周囲に誤解をあたえる場合もある。近隣からも狂信のように思われかねない。
 また婦人部の方の場合、長時間の唱題の最中に、ご家族が「ご飯まだかな」(笑い)と心配することがあるかもしれない。
 森田 たしかに、それでは信心即生活とは言えませんね。
 池田 もちろん、唱題に挑戦することは尊い。わが同志、とくに婦人部の友の信心のいちずさや真剣さには本当に頭が下がります。
 また、題目をたくさんあげたほうが、得であることは言うまでもありません。それは全部、自分の福運となって返ってくるからです。ただ健康面から見れば、決して無理をする必要はない。私はそう思うし、戸田先生も言われていました。
 さし迫った悩みがあって、やむにやまれず唱題また唱題の戦いに挑戦する場合も、あるでしょう。その場合でも、十分に体調に注意することです。
 いずれにせよ、同じ唱題をするなら、苦痛を耐え忍びながら行うよりも、心身ともに自分の体調がいちばんいいときに終わらせて、さわやかな気持ちで、活動に飛び出したほうが価値的ではないでしょうか。
7  唱題会について
 高田 唱題会については、どう考えればよいでしょう。
 池田 あくまでも本人の自覚と決意、そして体調にまかせて行うべきでしょう。強制はいけません。二、三人の有志による自発的なものはいいが、大勢で一律に行おうとすれば、いろいろな面で、だれかに無理をさせてしまう可能性もある。無理は長続きしない。
 健康面で言えば、無理をして、足をくじいたり、体調をくずしたりするのでは愚かです。心身ともに健康になり、幸福になるための信仰なのに、それでは本末転倒です。
 御書には「賢い者を人といい、愚かな者を畜という(一一七四ページ、通解)と仰せである。最高に賢明に生きるのが、仏法の理想とする人間の生き方なのです。

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