Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人生・社会について  

「希望対話」(池田大作全集第65巻)

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8  問8 どうやって自分を鍛えればよいか
 偉人伝などを読むと、今の自分は恵まれすぎているように思いますが、現在の環境のなかで、どのようにして自分を鍛えるべきでしょうか。また、本当の偉人とはどういう人をいうのですか。
 「艱難汝を玉にす」という言葉があります。困難、苦境を避けてはならない、それに挑戦し克服してこそ、人間は磨かれ、大成していくのだという意味です。前にもこのことにふれましたが(「勉学・読書について」の章、第2問参照)、青少年期に困難に直面しながら、それに打ち勝ち、やがて人々の尊敬、信望を一身に集める偉人、英雄になったという話は数多くあります。そういう本を読むと、自分にはとくに経済的、家庭的な悩みはないし、とてもそのような人たちのマネはできないと思うかもしれません。
 たしかに、置かれた環境はずいぶん違うと思います。しかし、その本をもう一度よく読み返してみてください。はたして、苦難のなかに身を置いたから、その人たちの成長があったのでしょうか。もし、苦しい環境というだけなら、もっともっと例はある。その環境に負けて堕落し、敗北の人生を送った人も多いはずです。結局、環境がどうだったかではなく、環境に挑み、克服しようとする姿勢が、他の人よりも強かったところに、偉人といわれる人たちの優れた点があったと思うのです。
 人間は環境で決まるものではありません。与えられた環境をどう生かすかによって成長は決まるのです。ですから、今の自分は環境に恵まれているから自分を磨くことができない、などということは絶対にない。自己を錬磨する気持ちさえあれば、挑戦の題材はどこにでもころがっています。環境のいかんではなく、問題は、それをどう発見するかです。自分は恵まれていて、成長の糧がないと思っていること自体、すでに環境に負けている姿であると、いえるかもしれません。
 たとえば、学校で、みんなから離れて一人ぼっちになっている人や、自暴自棄になっている人と心からの友だちになって、明るさを取り戻してあげることは、やってみれば難事中の難事であることがわかるでしょう。もし、君が勇気をもってその実行に踏み出すなら、それはすでに君自身を鍛えていることになるのです。
 ところで、今日の日本は、時代そのものが、底流はともかく、一応は明治維新や第二次世界大戦直後のときのような動乱、変化の時代ではなく、比較的平穏な落ち着いた世の中になっています。したがって、歴史に登場する偉人といわれる人たちが活躍したような、花やかなヒノキ舞台というわけにはいかないかもしれません。
 しかし私は、偉人とは、歴史の表舞台に立って、聴衆からヤンヤの喝采をあびる人だけをいうのではないと思う。また、もしそれらの人々がいかに優れた指導性を発揮し、新しい時代を築いたとしても、結果として、庶民を戦争に駆り立て、多数の血の犠牲をしいているようなときには、その人は決して、偉人でも英雄でもないと言いたい。
 本当の偉人とは――有名でなくともよい。歴史に名が残らなくともよい。いわば、いかなる富、力、技術でも救えない一人の不幸な年配者を両の手でしっかり抱きかかえ、悩みを解決し、救いきっていく――そうした人こそ、真実の偉人であると思うのです。
 どれほど文明が発達し、生活が便利になっても、人間としての苦悩はそれで解決されるものではありません。いや、文明が発達、進歩すればするほど、かえって人々は不幸になっているともいえます。表面的な繁栄に反比例して、現代は、より根本的な、人間としての悩みがあらわになってきたような観があります。そうした時代にあって、隣人の不幸を自分の不幸とし、真に平和で幸福な社会を建設するために立ち上がる人ほど尊い人はない。
 私は、次代を担う君たちには、ぜひともそういう人になってもらいたいのです。そしてそのために、今こそ体を鍛え、知識を吸収し、きたるべき日に備えて力を養ってほしいのです。
 勉強にしろ、生徒会やクラブ活動にしろ、友だちの問題にしろ、自分を鍛える場は無限にあります。それを積極的に探し出して挑戦し、見事な成長をとげることを心より期待しています。
9  問9 どうすれば戦争や紛争のない平和な世界をつくれるのか
 人類の最大の不幸は戦争だと思います。しかし、いつも地球上のどこかで戦争や紛争が行われています。人間は戦争や紛争のない、平和な世界をつくることはできないのでしょうか。
 戦争ほど悲惨で残酷なものはない。私も本当にそう思います。思うというより、私は実際に自分の体験から、そう断言せざるをえない。
 私がちょうどあなたぐらいのとき、あのいまわしい太平洋戦争が始まりました。四人の兄は次々と、お国のためという美名のもとに、戦地におもむいていきました。そのときの母の悲しみに満ちた眼差し、そしてわが子の戦死が知らされたときの、何ともいえない悲痛な顔は、忘れようとしても忘れられません。最愛のわが子を失った母の悲しみ――それは、私の母だけでなく、世界の母親に共通のものでした。
 戦争に対する憎しみは、少年の私の胸に深く深く刻み込まれました。そして、それはやがて、必ず戦争のない世界をつくるんだという誓いに変わっていったのです。
 その誓いは今でも変わりません。万物の霊長として最高の知性を誇る人間が、どんな理由があるにせよ、なぜ殺し合わなければならないのか、私は悲しく思わざるをえないし、一日も早く戦争や紛争を絶滅したい気持ちでいっぱいです。
 しかし、いくら嘆いてみたところで現実は変わらない。どうすれば戦争がなくなるか、平和を愛する人々の英知を結集し、力を合わせて不断の努力を続けなければなりません。
 そこでまず、なぜ戦争が起こるのかを、考えてみることにしましょう。
 戦争の原因は、歴史的にみるといろいろあるようです。食糧を手に入れるために争うという単純な動機から、もっと大きな経済的進出を目標にした戦争。あるいは一人の独裁者の征服欲を満たすための戦争。さらには、宗教、思想上の対立で戦争が起こることもあります。
 しかしながら、そうした種々の原因をもっとつきつめていくと、どの戦争も、人間のもつ一つの醜い性質が、より根本的な原因になっている。つまり、世の中では、一方が得をすれば一方は損をすることが多い。そして人間というものは、得をすればしたでますますそれを拡大しようとし、損をすれば何とか挽回しようとする。そのために争いが起き、これがこうじると、たとえ相手を殺してでも、ということになる。得か損かという表現は適切でないかもしれないし、このように簡単には図式化できない面もありますが、戦争の原因になっているものに共通しているのは、そうした人間の本能ともいうべき″欲望″であるように思われるのです。
 人間どうし殺し合うことが悪いのは、だれでも知っています。それなのに、現実には、さまざまな名目のもとに、つねにどこかで戦争や紛争が行われている。人間の歴史は戦争の歴史であったとさえいってよいくらいです。
 ですから、欲望というのは大変な魔性だといえます。人間には理性があり、理性の力が強ければ戦争などしないはずですが、欲望という魔力のまえには、理性など、大火に向かう小さな消火器にすぎないのかもしれません。
 では、戦争をなくすにはどうしたらよいのでしょうか。私は、一つには価値観を転換することだと思います。つまり、人間の生命はすべてのものに優先されなければならないものであり、あらゆる価値のなかで最高のものだという意識をみんながもつことです。いや、たんなる意識ではなく、無意識の意識にまで高め、強めることです。
 そして、いくら立派そうな大義名分であったとしても、もしそれが、人間の生命を犠牲にして行われるものであれば決して正義ではない、偽りの正義である――という考えをすべての人が強くもつことです。
 私は、それはとくに、未来の″地球責任者″であるあなたがたに訴えたい。過去、幾多の″正義″の名のもとに、数多くの若者が戦争に駆り立てられてきました。本人は当然のこと、親を、きょうだいを、友人を、恋人を、すべての人々を不幸のどん底にたたき落とす憎むべき戦争――。その不幸を絶対に繰り返さないために、どんな時代がこようとも、その姿勢だけは永遠に貫き通していってほしいのです。
 しかし、それはただかけ声だけでできるものではありません。そのためには、人間の心の中に巣くう欲望の魔性を鋭く見つめ、それと対決し、正しくコントロールしていけるだけの深い哲学がなければなりません。
 人道主義、ヒューマニズムという理性を基盤とした人間尊重の考え方が、欲望の魔力の前にあえなくついえ去っている現状を思うとき、一人一人の生命そのものを清らかにしていくことこそ、戦争を絶滅させる決め手だと思うのです。
 なぜ生命が尊いのか、そして生命を尊極のものとする考え方を、誤りなく生活、社会のうえにあらわしていくにはどうすればよいか、この根本問題に答えうる哲学を見いだすことができたとき、人類は長い殺りくの争いの歴史に終止符を打つことができるでしょう。
10  問10 21世紀の日本や世界はどうなっているのか
 今、科学は非常な勢いで発達していますが、一方で公害や環境破壊が大きな問題になっています。二十一世紀の日本や世界はどうなるのでしょうか。
 未来の社会がどうなるかを予測することは、非常にむずかしい問題です。数年前、未来学が一種のブームになり、いろいろな学者によってバラ色の未来社会が描かれましたが、最近では、公害や環境破壊の問題などが大きくクローズアップされて、むしろ悲観的な観測が多くなされているようです。ですから、正確に予測することはほとんど不可能に近いといってよいでしょう。
 それに、どのような時代になるかを考えることも大事ですが、より大切なことは、どのような時代にしていくかです。二十一世紀の日本や世界は、他のだれのものでもない。君たちのものなのですから、どういう時代を創るか、君たちが主体的に考えていかなければならない問題だと思うのです。
 ここでは、そのための参考として、いくつかの問題点を指摘しておくことにしましょう。ただし、第三次世界大戦のような大規模な戦争がないという前提での話です。大戦争が起これば、二十一世紀どころか、人類自体の存続さえあやういからです。
 第一に、科学技術が想像もできないくらいの発達をとげることは間違いないと思います。最近の科学文明の発展は驚くべきものがあり、ひと昔前までは夢物語だった月の探検(一九六九年七月、アメリカのアポロ11号が、月画着陸に成功。人類が初めて月に降り立った)さえ現実のものとなりました。二十一世紀まで約三十年、科学がどの程度まで進歩するか、まさに限りないといってよいでしょう。
 しかし、ここで考えなければならないことは、科学技術の発達が、そのまま人々の幸福に結びつくとはかぎらないということです。たしかに、交通や通信の技術はめざましく発達し、新製品が次から次ヘと造られて、生活は以前とは比較にならないくらい便利になりました。が、ついに核兵器のような大量殺人のための道具も、科学の進歩によって製造されるようになったのです。
 科学は、それ自体では善にも悪にもなるものです。肝心なのは、それを使う人間です。人間しだいで、人類の幸福の増進に計り知れない貢献もすれば、人類を絶滅させる凶器にもなるのです。とすると、人間自身の問題が、必然的に大きなテーマになってくるでしょう。
 第二に、科学の発達に関連しますが、公害や環境破壊の問題がますます切実になってくると思われます。今、空といわず河川といわず、海も陸も、私たちの周囲はすべて有毒物によつて汚染されているといっても過言ではないくらいです。しかも環境問題を一挙に解決する方法は、これといってないうえに、文明が発達すればするほど汚染の度合が激しくなるのですから、どうにも始末の悪い問題です。こうした現状に対し、人類は徐々にではあるが確実に死へ向かっていると、多くの学者が警告を発していますし、このまま進めば、その時期は意外に早いという人さえいます。
 現在では、日本などの先進工業国でとくに問題になっていますが、今まで環境問題など思いもよらなかった清浄な地域が、次々に汚染されていることを思うと、こうしたことが、やがて世界的な規模で起こるのではないかと心配です。
 第三に、物質面での生活は豊かになり、労働時間も短くなるでしょうが、その一方で、生きる目標が失われた社会になっていく恐れが多分にあります。現在でも、アメリカなど豊かな国では、人間らしく生きることをめざして青少年がかなりヒッピー化しています。それは、欲しいものはだいたい手に入り、仕事はほとんど機械がやってしまうようになると、何のために自分は生きているのかという根本的な疑問がわいてくるからでしょう。この問題は、まさしく人間そのものの問題であり、今後、人間はどうあるべきかという問題の解明が、非常に重要になるにちがいありません。
 このほかにもいろいろな問題があるでしょうが、こう考えてみると、どうやら二十一世紀の最大のテーマは″科学と人間″ということではないかと私は思います。そして、なかでも人間自身の問題が、最重要の問題として、過去のどんな時代よりも大きく取り上げられるようになる気がします。
 さらに、ではその人間自身の解明、科学の正しい発達は何によってなされるかというと、結局、生命と哲学の問題に帰着せざるを得ないのですから、二十一世紀は″生命哲学の世紀″とでも呼ぶべき時代になるといってもよいでしょう。

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