Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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勉学・読書について  

「希望対話」(池田大作全集第65巻)

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7  問7 あきっぱい性格で読み続けられない
 本を読もうと思っても、僕はあきっぽい性格なのか、すぐあきてしまいます。とくに、小説などは、読み始めても、なかなかとけ込めず、いつも途中で放り出してしまいます。読書にあきないコツを教えてください。
 本というものは、いざ開いてみると、最初は読みづらいものです。連続物で、次の結末を知りたいとか、よほど冒頭から、おもしろい話が展開されているとかといったことのないかぎり、なかなか進みにくい。
 このことは、本を著す作者も知っており、構想がまとまっていても、一冊の本の「書き出し」をどうするかで、大変苦労するのです。ある世界的な文豪の場合でも、最初の数行をいかに書くかに費やした時間が、残りの数百ページの分量を書くのに使った時間と、ほぼ同じであったといわれています。
 これを逆に読者の立場からいえば、それほど本というのは、最初は、とけ込みにくいものなのです。読書にすぐあきるといっても、決してあきらめることはありません。
 そこで「読書にあきないコツは?」という質問ですが、まず、読みたい本から読むということで、始めたらどうかと思うのです。
 君は、とくに小説はあきやすいといっているが、それは、君自身、まだ小説を読みたいという気持ちになっていないのではないかと思う。自分の関心のあることや、読みたいと心から思う本は、途中で、少々のことがあっても、読んでしまうものです。
 たとえば、マンガの本などは、すぐ読める。アッというまに、読んでしまったということが多い。
 また、読まなければならないと思う本は、いやでも、じっくり読むようになる。学校の教科書などは、その好例でしょう。
 したがって、まず、自分の関心のある本、読みたいと思う本を探して読んでみることです。そして、たとえ、その本が読みにくいと思っても、また、わかりにくくても、とにかく、一冊を読み終えることです。
 曲がりなりにも、一冊を読み終えると、読み終えたという充実感が残ります。すると、そこから、もう一冊読もうという意欲がわいてくる。そうしているうちに、だんだんと、本というものに対して親しみがわいてきて、いつしか、少々苦労してでも読み終えるようになるものです。
 要は、まず身近な一冊を読み終えることです。そして、そこから、読後の充実感と読書の楽しみを、自身でつかむことです。
 何事をするにしても、そこに充実感と、楽しみがないと、長続きしないものです。野球だってそうです。初めてグラブをはめ、ボールを手にした時には、どう捕ったらいいのか迷うものです。しかし、そこであきらめてしまっては、野球の楽しさは永遠につかめない。
 何回となく、ボールを後逸し、そのたびに走ってとりにいく苦労を重ねていくうちに、だんだんと正確に捕球でき、やがてファイン・プレーもできるようになる。そうなって野球の醍醐味がつかめるのです。
 とくに、活字というものは、遠ざかっていると、親しみにくいものです。反対に、慣れてくると、案外、スラスラ、目に入ってくるとい特徴がある。
 したがって、身近な本から始めて、活字に慣れていくうちに、これまで取っつきにくいと感じていた本も、読みこなしていけるようになっていくことが多いものです。君も、あきらめずに、挑戦していってほしいと思います。
8  問8 マンガや推理小説を読むのはダメ?
 マンガの本や推理小説などを読んでいると、いつも母から叱られます。僕は、息抜きのため、時々はいいと思っていますが、いけないのでしょうか。
 マンガの本ばかりではいけないが、君の言うように、息抜きのためなら、私はかまわないと思います。だいいち、少年時代にマンガの本も読んでいないようでは、堅苦しい人間になってしまう。
 もちろん、マンガのなかにも、いいものと悪いものがある。とくに、最近のもののなかには、不健全なものもみられます。これは、たしかに好ましい傾向ではなく、考えなければならない問題といえます。
 しかし、だから、すべてのマンガがいけないということではありません。マンガの中には、すぐれたユーモアや、奇抜な発想があって、それらを簡単なコマで追ううちに、自然と、そうした諧謔(ユーモア)やウイットを身につけることができます。
 このユーモアやウイットは、長い一生を送るうえで、また、とかく、堅苦しくなりがちな人間社会のなかで、一服の清涼剤として、非常に役に立ちます。また、どんな苦難にも、いつも笑顔で立ち向かっていく明るく強い人間として、みんなから親しまれる魅力ある人柄も、そうしたなかからつちかわれていくといえましょう。
 このように、マンガは、幅広い情操、奔放な発想を養ううえで、欠かせないものです。現在の大人の社会をみても、少年時代に、どんなマンガを読んでいたかで、かなり感覚が違うともいわれています。
 私が少年のころに読んだマンガは『冒険ダン吉』『のらくろ』などでしたが、今でも、少年時代の夢をさそった一コマや、ほのぼのとしたユーモラスな一コマが、鮮やかに瞼に浮かんできて、懐かしい思い出になっています。
 次に、推理小説についてですが、これも、まったく同じ考え方でいいと思います。君のお母さんが、推理小説を読むことを心配している理由も、よくわかります。
 推理小説には、必ず殺人とか犯罪といった、反社会的な問題がテーマになるので、それを、たくさん読むと、そういう影響を受けはしないかと心配しているのでしょう。とくに推理小説に登場する犯罪者は、かなり緻密な計画を練って、探偵や捜査陣を煙に巻くことなどが多く、いきおい、その完全犯罪の計画自体に熱中したり、関心が集まったりするものです。
 そこで、子どもの健全な成長を願う親の立場から、なるべく、そのような影響を受けないように考えるのも、道理だと思います。
 しかし、推理小説を読んだ人が、すべて犯罪者になるわけではありません。犯罪者のほとんどは、そのような小説とはまったく無関係な動機で、罪を犯しています。
 ですから、君が、推理小説を読みたければ、読むことになんらさしつかえはありません。犯罪者の心理や、巧妙な犯罪計画も推理小説の主要部分ですが、その犯罪の真相を追究する過程の推理もまた非常に大事な要素になっています。
 ものごとの真実、真相を、与えられた材料から一歩一歩論理的に考えていく、この「推理」ということは、私たちが、何か問題を考える時に、決しておろそかにできない作業です。それは、筋道を立てて考えるうえで、基礎になることがらです。
 したがって、自分の考えを緻密にするためにも、また、頭を柔軟に鍛錬するためにも、推理小説は、決して悪くはありません。学校の勉強に、さしさわりのない程度に読んでいけばよいのではないでしょうか。
9  問9 読書ノートは必要? 精読と多読はどちらがいい?
 僕の友だちに、本を読むと、必ず、その本の主題、著者の考え方、さらに読後の感想等をノートに書いている人がいますが、読書のあり方として、やはり、そうしたほうがよいのでしょうか。また、精読と多読のどちらがよいのか教えてください。
 一冊の本を読み絆えたあとで、その本から学んだ点、感動したこと、印象に残る一節等を、読書ノートなどにまとめておくことは、たしかに効果があります。
 書くということによって、その本の内容が整理でき、より深くつかむことができるからです。また、そういう読書ノートを何冊も積み重ねていくことは、ひそかな楽しみですし、読書の充実感を深めることにもなります。年月を経てからも、その読書ノートをみて、自分の成長の跡や、少年時代に考えていたことなどを思い返すこともできます。
 したがって、もし、できれば、そういう読書ノートをつくったほうが有益でしょう。本を読むごとに、ノートに書いていたのでは、大変手間がかかると思うでしょうが、なにも多く書くことはないのです。作者の意図や、本の中心テーマ、それに簡単に、自分が感じたことを列記するだけでもいいでしょう。それだけでも、本を読んだ力が、よりいっそう、自分についてくるものです。
 しかも、読んだ本の全部を、ノートに書く必要はない。とくに何も感じなかった本もあるでしょうし、おもしろくなかったものもあるでしょう。ですから、自分が感動した本とか、非常に教訓になった本とかに限ってもいいのです。具体的なノートのつくり方は、各人各様で、自由でよいと思います。自分の思うがままに、つくっていけばよいでしょう。
 次に、精読か多読か、ということですが、これは、どちらがよいとは、いちがいには言えません。個人の性質もあるでしょうし、読む本の内容によっても違います。
 ただ、本は、幅広く読むにこしたことはありませんが、本によっては、何回となく繰り返して読むベきものもあります。とくに、自分が深い感銘をうけた本などは、何度も読んでみたい気持ちになるものです。深い内容のある本は、繰り返して読むうちに、前回読んだときには気づかなかったことを新しく発見したり、理解できなかった部分がわかるようになったりして、一冊の本を深くマスターすることができるからです。
 西洋に、「一書の人を恐れよ」(トマス・アクィナス)という言葉があります。一冊の本を徹底的に学ぶことほど強いものはなく、それは、時代、社会を動かす力ともなるという意味です。
 西洋では、文学者をはじめ、多くの人にとって、そうした一書は、『バイブル(聖書)』であり、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』であり、経済学では『国富論』であったといわれています。世に大きく名を残している人の背景には、必ず、一生のうちに、何回となく読んだ一書が、強い影響を与えています。
 そういう意味から、一冊の本を深く掘り下げて読むことは、非常に大事なことです。もちろん「一書の人を恐れよ」というのは、一冊の本しか読むなということでは、毛頭ありません。もし、他の本はさしおいて、一冊しか読まないというのならば、ずいぶん、視野の狭い、偏頗な人間ができてしまいます。
 自分が生涯かけて読もうとする一冊の本を見つけるためには、多くの本を読まなければならないでしょう。幅広く、さまざまな本を読んでいるうちに、自分の関心や志向性も、やがて定まってきて、そのうちの何冊かを、再度、読み直してみようという意欲がわいてくるものです。
 ですから精読か多読かということは、より深く内容を知るうえで精読、視野を広くするうえで多読、そしてこの両方がともにあいまっていくのが、最も妥当といえると思います。

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