Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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友情について  

「希望対話」(池田大作全集第65巻)

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8  問8 リ―ダーになるのと、陰の力になるのはどちらがいいか
 クラスをよくしていくためには、リーダーになって活躍する生き方と、陰の力になる生き方があると思います。どちらがよいでしょうか。
 自分のことだけではなく、クラス全体をよくしていこうという君の姿勢には、心から感心します。何か余計なことをやるように思われるかもしれませんが、他の人のためのようにみえて、じつはそれが君の成長のためにもなるのです。
 自分だけよければよい、クラスのことなどやるのは時間のムダだなどといって、自分のカラに閉じこもる利己主義の人は、人間として最も醜い人であるだけでなく、そうした生き方は、かえって自分のためにもならないものです。
 こんな話があります。
 ―― 昔、ある人が、生きているうちにぜひ地獄と極楽を見学しておきたいものだと思って旅に出ました。野を越え山を越え、ようやく地獄の入口にたどりつきました。中へ入ってみると、盛りだくさんのごちそうがあり、地獄の人々が食卓を囲んでいます。
 ところが想像とは違って楽しそうだなと思ってよく見ると、みんな骨と皮ばかりにやせているのです。使っているハシが腕より長いために、せっかくごちそうをつまんでも日口の中へ入れられないからでした。
 旅人は、次に極楽をたずねました。盛りだくさんのごちそうは地獄と同じです。やはりみんなで腕より長いハシを使って食事をしています。
 ところが極楽の人は、まるまると太っているのです。どうしてだろうと思ってさらに注意して見ると、地獄の人は、自分の口ヘばかり入れようとしていたために食べられなかったのですが、極楽の人はつまんだごちそうを隣りの人の口に入れてあげ、隣りの人から自分の口ヘ入れてもらっていたのでした。
 これは、昔から伝わる仏教説話ですが、エゴイズムが結局は自分をほろぼすものであり、他の人のためと思ってやったことが、その実、自分のためになるということを象徴的に教えている話といえましよう。
 ところで、君の質問ですが、リーダーになるべきか、陰の力でがんばるべきか、性格の違い、周囲の状況などによってさまざまでしょうから、いちがいには断定できないと思います。ただ個人的な意見をいえば、陰の力となって黙々と励む人が、私は好きです。
 陰の力とはつらいものです。やることも地味ですし、他の人から見ればつまらない仕事のように思われるかもしれません。しかし、陰の人があってこそ、表面に立つリーダーが生きるのです。人はよく表面に出ることを望みますが、それは力があればいつでもできます。自分から望まなくとも、自然にみんなが推薦するものです。
 それはともかく、リーダーといつても陰の人といっても、本にたとえれば、根になるか花になるかの違いです。根がなければ花は咲かず、根はあっても花が咲かなければ実は実らない。両方の立場の人がいなければならないわけです。
 そこで大事なことは、どちらの立場になっても、ともにクラスをよくしたいという同じ目的に立つことです。その目的を忘れたとき、陰の人は、つまらない役割だと不満をもつようになり、リーダーになった人は、自分を支えてくれる陰の人の苦労を忘れて、自分だけいい気になってしまいます。
 とくに、リーダーになった場合の注意ですが、リーダーになった人は、たとえ陰にまわっても同じ心でやれなければなりません。おうおうにして表面に立ちたがる人は陰にまわることを嫌うものですが、そういう人は、本来、リーダーになる資格はないのです。
 そして、表面に立つ人は、とくに悪い点はなくてもいろいろと誤解されやすく、ねたまれたりするものだということを承知しておいたほうがよいでしょう。ですから、軽はずみな言動は慎まなくてはなりません。ちょっとしたことで反感をかい、正しいことを言ってもみんなが協力しなくなってしまうからです。
 それだけに、もし、自分は他の人とは違うんだというような特権意識を、少しでももったら大変です。そうした意識は必ず言葉や態度にあらわれ、みんなからポイコットされてしまうにちがいない。私だったらそういう人は最も軽蔑します。
 リーダーの誇りと強い責任感をもちつつ、みんなと同じ仲間として、よきまとめ役として接していく――表面に立つ人がそういう態度を貫いてこそ、クラスもよくなるし、民主主義の精神にもかなうのです。
9  問9 いやなあだ名をつけられてつらい
 私は、いやなあだ名をつけられています。私がいやがると、みんなはますますあだ名で呼ぶのです。どうしたら、あだ名で呼ばれなくなるでしょうか。
 困った問題ですね。それほど悪気があって呼ぶのではないのでしょうが、あなたが顔をしかめたり、逃げだしたり、懸命になって文句を言ったりするのがおもしろいのでしょう。ですから、いやがればいやがるほど逆効果になるようです。
 そこで提案ですが、思いきって、そのあだ名をあなたが認めてしまったらどうでしょうか。呼ばれても平気な顔で返事をするのです。そんなことは、とてもできないと思うかもしれませんが、そこが辛抱のしどころです。あなたをからかおうとして呼ぶのですから、当のあなたが平気でいれば、拍子ぬけしてしまうはずです。
 最初はそれでも何やかやと言われるでしょうが、決して挑発に乗らないことです。そのうちに、みんなもはりあいがなくなって、そのあだ名では呼ばなくなってしまうにちがいありません。
 それと大事なことは、どんな分野でもよいから、あだ名を呼ぶ人たちに、とてもかなわないと言わせるような、秀でたものをもつことです。
 あだ名というのは、たいていの場合、よいあだ名はあまりないようです。背が低いから″チビ″だとか、太っているから″デブ″だとかというように、体つきや顔つき、身振り話し方などの特徴をとらえてつけることが多いようです。それを、本人が気にしている、あまりよくない特徴をとらえてつけるので困るわけです。
 しかし、人間の価値は、体の特徴がどうだとか、身振りがどうだとかということで決まるのではない。太りすぎている人や背の低い人が、人間的に劣っているなどということはないのです。
 人間としての尊さが決まるのはそんなことではなく、中学生であれば、どれほど真面目に勉強しているか、クラブ活動や生徒会、クラスの役員としてがんばっているか、友だち思いか、家庭での生活がきちんとしているかなどで、立派かどうかが決まるのです。
 たとえば、豊臣秀吉のことはあなたも知っているでしょう。ゾウリ取りから出世して全国を統一した戦国時代の武将です。その秀吉は、顔が猿に似ていたため、ずっと″サル″というあだ名で呼ばれていたそうです。
 しかし、秀吉は決していやな顔をせず、その蔑称を甘んじて受け、与えられた仕事に黙々と励みました。そして、ついに日本一の武将になったとき、もう秀吉のことを″サル″と呼ぶ人は、一人もいなくなったのです。
 ″サル″と呼ばれていた時期の秀吉は、どんなにくやしかったことでしょうか。人間ですから、耐えられない気持ちになったこともあると思うのです。しかし、もし秀吉がそれに反発してばかりいたり、いやだからといって逃げまわっていたら、どうなったでしょうか。おそらく、ますますみんなからバカにされ、あのような大事業も達成できず、一生″サル″のままで終わっていたかもしれません。
 秀吉の偉さは、それを我慢して、今なすべきことに全力を尽くしたところにあるといえます。大きな希望を胸に描き、″今に見ろ!″と歯をくいしばってがんばった、その忍耐と努力が、歴史に残る豊臣秀吉をつくりあげたのではないでしょうか。
 あなたの場合も、たしかに立派だ、とてもかなわないと、みんなから認められるようになれば、自然にいやなあだ名は消えてしまうことは間違いないと思うのです。また、そのあだ名自体は残っていたとしても、尊敬をこめた、あるいは親しみをこめたものに変質していくにちがいありません。
 あだ名にもいろいろな種類があります。親友どうしの親しみのこもったあだ名は、正式な名前で呼びあうより、はるかに親近感を増すものです。学校の先生でも、生徒の間に人気のある先生ほどあだ名をつけられているようです。
 では、そのあだ名はよいあだ名かというと、必ずしもそうではありません。顔が動物のカバに似ているから″カバ″だとか、鼻が低いから″ペチャ子″だとか、知らない人が聞いたらバカにしているのではないかと思われるようなあだ名で呼んでいる。そして呼ばれた本人も、けっこう平気で返事をしているのです。
 こうしたことを考えると、あだ名自体がよいあだ名か悪いあだ名かというより、親近感から呼ばれるのか、からかわれて呼ばれるのかということに問題があるといえそうです。となると、結局、その人自身の問題に帰着するわけで、自信を失ったり、くじけたりすることなく、強く明るく自分自身を磨いていくところに、解決の道があるといえるでしょう。

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