Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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三世に花咲き風そよぐ  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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4  生命の宮殿に住する
 松岡 多くの会員に″白木のおじさん″と慕われた奥さまのお父さま、白木薫次さんの晩年についても、お話しいただけませんでしょうか。
 戦前の入会で、戸田先生は「学会の彦左衛門である」と言われ、「城南に 君のいませば 我が砦 盤石の重みに やすらけくある」と詠まれています。
 夫人 父は、八十五歳まで元気に生きました。亡くなる一年ほど前に風邪を引いて、時折、床に臥せるようになりました。あるとき、母からこんな電話がありました。
 「どうも、おじいちゃんの様子がおかしいの。『布団は絹のようだ』とか『ここは森の中だ』『ここは宮殿だ』とか言ってね。心配なの……」
 池田 私も多忙を極めてお見舞いにも行けなかったが、ようやく訪ねたところ、四畳半に木綿の布団で休んでいた。
 普通に話はするし、まともなんです。
 「金糸銀糸の大名の布団みたいで、じつに心地よい。それに、すばらしい世界が見えてね。野原一面に美しい花々が咲き乱れ、さわやかな森には絶妙な音色の曲が流れている。まるで宮殿にでもいるようなすばらしさなんですよ」――辺りが、こんな風に感じられるときがある、と満足げに笑っているんです。
 松岡 好々爺然とした、あの温顔が目に浮かびます。
 池田 だから私は言ったんです。「心配はいらないよ」と。過去の次元のことを、懐かしく思い起としているのか。あるいは未来の次元のことを、楽しんでいるのかもしれない。
 過去、現在の福徳追い来って未来の大福運につつまれているのでしょう。いわば仏界に住するようなものです。
 大聖人は、こう仰せです。
 「妙覚の山、すなわち成仏の境涯に立って四方を見渡せば、すばらしい世界が広々と続いている。天空からは四種類の花がふり、美しい音楽が聞こえ、常楽我浄の四徳の風にそよめいて、自在に楽しきっている。私たちも必ず、そうなるでしょう」(御書一三八六ページ。趣意)と。
 夫人 「頭がおかしくなっちゃった」(笑い)と、案じていた母は、それで、すっかり安堵しましてね。父は亡くなる十年ぐらい前から、勤行が終わると、必ず御書を開き、「開目抄」の一節「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし……」を拝読していました。
 母も病弱が原因で信心したのですが、先ほどのお話のとおり、今も元気で長生きさせていただいています。
 佐々木 過去・現在・未来という生命の荘厳な流れと、不可思議さ、信仰に生きぬいた人々に共通の大境涯、崩れぬ境地を感じさせるお話です。ありがとうございました。
5  ″私は勝った″といえる人生を
 夫人 私は小学生の時から信仰してきました。人生を振り返ってみて、本当に仏法の偉大さを心から深く感じる日々です。仏法は、悲しみを喜びに変え、苦しみを楽しみに変える力をもっています。どんな苦境をも乗り越えていける自信をあたえてくれます。
 池田 戸田先生はよく、生きていることそれ自体が喜びであり、楽しみとなる人生を送ることが仏法だ、と仰せになっていたが、まったくそのとおりだと思いますね。
 広布のために、徹して信仰をまっとうされた方は、一人ももれなく、なんの心配もなく、悠然たる臨終を迎えることができます。これは、多くの方々に接してきた私の厳然たる結論です。
 佐々木 死を前にしては、いかなる権力も、財力も、名声や知識といえども、まったく通用しない、ということですね。
 池田 そうです。ヴィクトル・ユゴーの、「人間はみんな、いつ刑が執行されるかわからない、猶予づきの死刑囚なのだ」(『死刑囚最後の日』斎藤正直訳、潮文庫)は、有名な言葉です。
 自若安穏とした最終章を大勝利の姿をもって迎える――そのための信仰です。悲しみゃ苦しみ、悔恨を残す死は、敗北の死です。
 徹して信心をしぬいて、最後に、「私は勝った!」と言いきれる人生を送っていただきたい。それが、わが同志への私の願いであり、祈りです。

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