Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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東京タワーと九十歳トリオ  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

前後
4  仏前の購読用紙
 松岡 「聖教新聞」というと、この松田さんのお宅のお嫁さんが昨年(一九九七年)、病気で亡くなられました。
 近くの化粧品店の方が弔問に来られ、そのあまりにもさわやかな美しい顔に感動され、「この方が生前、いちばん喜んでおられたことは、なんだったか……」と思い出し、自分で、「聖教新聞」の購読申し込み用紙に記入され、置いていかれたそうです。
 すばらしい友人葬で、お嫁さんは霊山に旅立たれたのですが、仏前に供えられた一枚のピンク色の購読用紙が輝いていました。
 池田 ありがたいことです。「聖教新聞」は、このような方々の真心によって支えられていることを決して忘れてはいけません。
 佐々木 本当に、そう思います。松田さんは、関東大震災の後、親戚を頼って、赤坂に出て来られた。レストランで働いて生活をつないで、結婚後、ご主人と溜池食堂を開いたのです。
 松岡 その食堂が、当時の山王ホテルの前にあっで、早朝、店の前で練炭に火をおこして、開店の準備をするのが日課だったそうです。
 ある深い雪の朝でした。ふだんから、店の前の道を兵隊が列をつくって歩いていたのですが、その日は、兵隊が着剣していて、まだ暗い中で、その剣がチカチカ光るのが見えたそうです。
 いつもと違うなと思っていると、その後、白ダスキをかけた兵隊たちが、首相官邸に通じる細い坂をぞろぞろ下りてきて、山王ホテルと近くの料亭に次々と入っていった。それが、昭和十一年(一九三六年)の二月二十六日に起こった陸軍将校のクーデター「二・二六事件」だったのです。
 佐々木 埜口さんも、現場に遭遇した牛乳屋さんから話を聞かれたそうで、「兵隊が桜田門の前に集まっていて、『撃て!』の号令を合図にパン! パン! パン!と銃を乱射して、警視庁に突入したんですって」と、興奮ぎみに語られていました。
 松田さんは、「こんな事件は二度とあっちゃいけない。この後、間もなく戦争になったのですからね」と強く言われていました。
5  自分らしく「黄金の最終章」を飾れ
 池田 まさに明治、大正、昭和を貫いて、生きぬいてこられた。勝ってこられた。偉大なる″人間勝利の母″に最敬礼して、たたえたい気持ちです。
 松岡 三人の長寿の秘密をお聞きすると、好き嫌いなくよく食べる、歩き回る、などが共通点でした。松田さんは、毎朝五時に起き、窓を開け、深呼吸をし、乾布摩擦を一分間するのが日課ということでした。
 佐々木 松浦さんは、「頭をすごく使います。考えごとが多い。時間は厳守。決められたことは必ず実行します」と言っておられました。
 池田 よく歩き、活発に頭をめぐらす――学会活動に、すべて含まれているね。
 佐々木 先生が対談された著名人のなかにも、九十歳を超えて活躍された方が数多くおられますね。
 池田 双璧は、ガンジーの直弟子インドのパンディ博士(享年九十一歳)と、ブラジルの人権の闘士アタイデ博士(享年九十四歳)でしょう。お二人のお顔には、信念が巌のごとく凝縮していました。
 二つのノーベル賞を受賞したポーリング博士(享年九十四歳)も、背筋をしゃんとされ、若者のように頬を紅く染めておられた。
 中国のぺンの闘士・巴金ぱきん氏(九十四歳)は、「私はぺンに火をつけて、わが身を燃やします」との言葉どおりの人生を、今も送られています。
 皆さん、自分の決めた道を、一生涯、どこまでも前へ前へと歩んでおられた。心は二十代の若々しさで、青年の瞳をされていました。
 また、お会いした方の多くがそうでしたが、トインビー博士も、晩年は、仏法の「生死観」を深く志向されておられました。
 避けられぬ死と老いを前にして、人生のうえでも、社会のうえでも、自分らしく、いかに活力にあふれた、輝かしい最終章を生きていけるか。それが高齢社会を迎えた二十一世紀の日本の最重要の眼目です。
 その問いに事実のうえで正しい解答を示すことができるのは、日蓮仏法しかないのです創価学会しかないのです。その大確信で、ともどもに、「われ、かく生きぬいたり」との勝利の歴史を綴りながら、広宣流布という希望の大遠征に進んでまいりましょう。

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