Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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(五)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
11  翌日――。
 一城は、校舎の入り口のところにある階段に腰をおろして、冬の日差しを浴びていた。隣には、中村君がいる。
 放課後のひとときだった。二人は何も言わないで、ゆったりした時間のなかに身を委ねていた。
 やがて、中村君が静かに口を開いた。
 「……ぼくは、とてもたくさんのことを学んだ気がする」
 「……ずいぶん、いろんなことがあったものね」
 「うん――。一城にも……とても心配かけちゃったし……」
 「いいんだよ、そんなことは――。かえってぼくも、君からたくさんのことを教えられた気持ちさ」
 中村君が経験したことは、けっして彼一人だけのものじゃない。ぼくたちが、これから生きていくうえで、役に立つことが、たくさんある。中村君と友達で、本当によかった。
 ――それが、今の一城の実感であった。
 「……それにしても、すごかったね、あの決勝戦は――。一時は、もうだめかと思ったよ」
 「弱点を徹底してつかれたときには、ぼくも試合をなげてしまいたくなった。でも、そう思ってしまえば、自分に負けたことになるだろう?それじゃあ、応援してくれているみんなに申し訳ない」
 「…………」
 「ぼくは、この数カ月、懸命なトレーニングを続けることができた。だから、もう悔いはない。とにかく、自分のもっている力を全部ぶつけよう。それで負ければ、まだぼくの力が足りなかっただけのこと……。そう思ったら、気分がすっきりしてきてさ」
 「ふーん。最後は、どうりで落ち着いているように見えたもの」
 「何とか勝ちたいという気持ちより、けっして負けない、という心構えのほうが、大切だと思うんだ。優勝したからいうんじゃないけど」
 「じつはね。八重子おばさんも同じようなことをいっていたよ。自分の願いどおりにいかないことも、これからたくさんあるけど、そのときに、くじけたり、あきらめたりしないで、負けじ魂を発揮していく――それが、いちばん肝心なんだって」
 中村君は、その言葉を心でゆっくりと味わうように、うなずいている。
 「去年の夏休み……」
 中村君が、遠くを見るまなざしになった。
 「ぼくがまだ入院中のとき、君が見舞いにきて、八重子おばさんの話をしてくれた……。あのときぼくは、八重子おばさんの被爆体験を聞いて、何だか自分がすごく恥ずかしくなったんだ」
 「…………」
 「八重子おばさんの苦労に比べたら、ぼくの悩みなんか、とても取るに足りない。それどころか、かえってみんなを心配させている……。そう思うと、今までの自分が、情けなくなってきた……」
 「そうか――」
 「すると、それまでかかえていた悩みが、すーっと小さくなった。八重子おばさんのためにも、みんなのためにも、よし頑張ろうという気持ちがわいてきたんだ」
 「うん――」
 中村君は、一城のほうに体を向けると、言葉を続けた。
 「――それからね、ぼくは、きのう、八重子おばさんに手紙を書いたんだ。そのなかには、あの手帳のページもいっしょに入れた。だって、あれは八重子おばさんの大切な宝物だろ」
 「うん、でも君にくれたんだよ」
 「ううん、やっぱりあれは、八重子おばさんに返したほうがいいと思うんだ。ぼくはもう大丈夫です。八重子おばさんの体験と温かい真心で元気になりました。この宝物はいつまでもおばさんが持っていてください。ありがとうございました……って。まだ一度も八重子おばさんに会ったことはないけれど――」
 「…………」
 「《どんなことにも負けない強い心》が、ぼくにもありました……って」
 一城は、空を見上げた。
 原爆でひどい目にあいながらも、そこから立ち上がった八重子おばさんの体験は、けっして昔の物語ではない。今に生きるぼくたちにも、そしてこれからの世界にも、大切なことをたくさん教えてくれた。ぼくの〈ヒロシマへの旅〉は、じっさいに一人の友達を救ったのだ。おばさんの体験を忘れてしまってはいけない。
 「……それからね、ぼくは、こうも書いたんだ。“平和の心”っていうのは、自分から逃げないこと、苦しみを避けないこと、そして困っている人の味方になって励ますこと――みんながそうなれば、戦争なんて起きっこないもの」
 「本当に、そうだね――。“平和の心”……か」
 世界には、今も戦争をしている国がある。人類は相変わらずたくさんの原爆をかかえている。いつになったら、本当の平和はくるのだろう。
 これからのぼくたちこそ、戦争も原爆もない平和な世界を築いていかなくちゃならない。それには、もっと勉強して、うんと体を鍛えて、どんなことにもへこたれない、そして困っている人を助ける“平和の心”を強くしておくことが大事だ。
 一城は、しみじみとそう感じた。
 「……君から手紙をもらったら、八重子おばさんもすごく喜ぶと思うよ」
 中村君は、ニコリとほほえんで、一城にうなずいた。
12  「おーい!キャプテン!」
 クラスの仲間が、二人のところへ勢いよく駆け寄ってきた。みんなは息をはずませて、中村君に語りかけた。
 「おめでとう! 優勝だってね!」
 「学校中で評判だよ!」
 「“黄金の右腕”も、ついに復活だね!」
 中村君は、うれしそうにみんなの顔を見回している。
 「中村! 卓球ばかりじゃなくて、勉強も頑張らなくっちゃな」
 「もちろんさ! もうすぐ三年だし、今度のテストは君を追い抜こうかな……」
 みんなの笑い声が、日だまりのなかに広がった……。
 さわやかな気持ちで、一城は、そばにある梅の木の梢を見上げた。つぼみが、ふっくらとふくらみ始めている。一城は、春がやってきたことを全身で感じた。

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