Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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(一)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
3  新幹線は、トンネルの中を轟音とともに走っている。窓ガラスに、自分の顔がぼんやりと映っていた。闇のなかへ目をこらすたび、一城には、あのときの中村君の顔が思い出されてならないのである。
 青白いほお……光を失ったひとみ……固く結ばれたくちびる……。
 どんな励ましの言葉も、どんななぐさめも、中村君の心を素通りしていくようであった。
 命は助かったというものの、中村君を取りまく厳しい状況は、いっこうに変わっていない。一家の生活に、好転のきざしはないようだ。中村君の入院費も、大変にちがいない。家計を支えるため、中村君のお母さんは働き始めたという。
 そればかりではない。医者から一城は、こんなことも聞いていた。右腕が治っても、以前のようにはラケットを握れないだろうというのである。あの“黄金の右腕”は、よみがえらないかもしれない。
 そのことを、中村君も、うすうす知っているようであった。見舞いに行った日、卓球の話をもち出しても、力なく視線を落とすばかりだった中村君の寂しげな顔……。
4  「まもなく……広島に到着です。お疲れさまでした。手荷物、網だなの荷物は、お忘れにならないよう……」
 車内アナウンスが響いた。あちらこちらで乗客が立ち上がって、身じたくを始めている。
 新幹線は、広島の市街へ入った。だんだんとスピードをゆるめていく。
 右手に山並みが迫っている。この広島は三方を山で囲まれた都市である。車内から、海は見えなかった。大小のビルが立ち並んでいて、視界をさえぎっている。
 あと五分たらずで広島駅にすべりこむ。ホームには、八重子おばさんが出迎えに来ているはずだ。
 広島行きをすすめたのは、一城のお父さんであった。親友の自殺未遂に、一城はかなりのショックを受けている。それを気づかっての提案にちがいなかった。
 八重子おばさんは、お父さんの姉にあたる。夏休みの一週間をそこで過ごすのも、気分転換にいいだろう、との配慮からであった。
 旅の手続きは全部自分でやってみろ、とお父さんは言った。一城は、時刻表を調べたり、切符を前もって買いに行ったりした。前の日には、実際に東京駅へ一人で行って、入場券でホームに入り、何番線から新幹線が発車するのかをたしかめもした。当日、迷わないためである。
5  八重子おばさんが被爆者であることは、一城も知っている。四十一年前の夏、広島の街に原子爆弾が落とされたとき、八重子おばさんは、爆心地から一㌔半ほどの所にいたそうだ。それはそれは大変な思いをしたらしい。戦後も、ずいぶん苦労したようである。
 「おばさんの話を、よく聞いてくるんだよ。きっと思い出に残る夏休みになるから」
 家をあとにする日の朝、お父さんはこう言った。一城は八重子おばさんに会ったら、さっそく被爆体験を聞いてみるつもりだった。
 列車は、ホームにゆっくりと停車した。人の波が、出口のほうへと流れていく。一城は網だなからボストンバッグをおろすと、人の列に続いた。
 ホームは帰省客や、子どもづれの家族などでごった返していた。八重子おばさんは、どこにいるのだろう。七号車のうしろの出口の付近で待ち合わせの約束である。一城は、柱のかげに人の流れをさけながら、あたりを見回した。
 そのとき、一城はポンと肩をたたかれた。
 「一城ちゃん……だね!」
 うしろからのぞきこむようにして、八重子おばさんが立っていた。ニコニコと目を細めて笑っている。
 「まあ! しばらく見んうちに、だいぶ大きうなったねぇ――」
 「こんにちは! 八重子おばさん」
 「ひとりで、よく来れたのう」
 「新幹線で、まっすぐですから……」
 「一城ちゃんも、もう中学生じゃけんね」
 八重子おばさんは小柄だった。上背は、一城のほうがちょっとある。丸々とした体つきで、くりくりした目が、とても優しい。全体に、はずむような活発な明るさがあふれている。
 「お父さんからはね、いろいろ話を聞いとるけぇ、まあ、ゆっくりしていきんさい」
 「よろしく、お願いします!」
 一城は、ぺこりと頭を下げた。
 駅前から、二人はバスに乗った。街並みは夏の日差しをいっぱいに浴びて、むせかえるようである。
 立派なビルが、たくさん立っていた。道行く人たちの服装は、色とりどりで鮮やかだった。
 一発の原子爆弾は、広島を焼け野原と化した。しかし、その面影は、もはや少しも感じられない。東京の繁華街かと見間違うほどだ。四十年の歳月は、原爆の傷あとを、すべて洗い流してしまったのだろうか。バスの窓からながめながら、一城はそんなことを考えた。
 南観音町という停留所で、二人はバスを降りた。この先には、広島空港があるという。八重子おばさんの家は、静かな住宅街の中にあった。
 おばさんには、光枝という娘がいる。二人暮らしだ。おじさんは、ずっと前に何かの病気で亡くなったということを、一城は聞いていた。
6  冷えたサイダーをコップに注いで、八重子おばさんがすすめてくれた。
 「もうじき、光枝が勤めから帰ってくるから……。そしたら、晩ご飯にするからね。きょうは、ごちそうだよ」
 そう言いながら、八重子おばさんは楽しそうに台所へと立った。
 光枝が帰宅したのは、六時を少し回ったころだった。外は、まだ明るい。
 「一城君、いらっしゃい! よく来たわね」
 「こんにちは――」
 「久しぶりね。元気?」
 「ええ……まあ……」
 「何年生になったの?」
 「中学二年になりました」
 「どう? 学校生活は楽しい?」
 「はあ……何とか……」
 「あまり元気がないわね。長旅で疲れちゃった? 若いんだから、も少し、シャキッとしなくちゃだめよ」
 笑顔をいっぱいに浮かべて、光枝は語りかけてくる。はつらつとしている。その明るさに、一城は何となく圧倒される気分だった。
 二人のやりとりをニコニコしながらながめていた八重子おばさんが、声をかけた。
 「さあ! ご飯ができたけぇ。みんな、はよ、来んさい!」
 テーブルの上に並べられたたくさんのおかずをつつきながら、一城は八重子おばさんに聞いてみた。
 「おばさん、原爆が落ちたとき、広島にいたんでしょ。そのときのようすを聞かせてくれませんか」
 八重子おばさんは、ハシの手を休めて、一城の顔を見つめた。
 「……そのうちにな。時間は、たっぷりあるけん、まあ、あわてなさんな」
 聞けば、すぐに話してくれるものと、思っていた。だが、そうした一城の期待は、少しあてがはずれた。

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