Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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(五)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
3  そこで、紙片の空白が尽きた。
 シェニエは静かにペンを置き、色褪せたペン軸の鵞毛を目に近づけて、じっと見つめた。
 その夜も、幾人かの囚人の名を呼ぶ声が、獄舎の廊下に不気味にこだましたが、シェニエの名は呼ばれなかった。心配されたカトリーヌやトゥルデンヌの名も、聴こえなかった。
 その次の日も、シェニエは無事に生きた。もはや、彼は、ただ終日、独房の片すみに身を横たえ、清らかな目を大きく見開いて、最後の戦いのときを待つばかりであった。
 そして、更にその次の日――。
 ここ四日ほど間歇的に降り続いていた雨もようやく吹き払われて、朝から明るい日差しがパリを照らしだしていた。
 街なかの鐘が、午前八時を告げて間もなくのことであった。
 「アンドレ・シェニエ!」
 荒い、太い声が、扉の近くで聴こえた。
 まだ目覚めきっていなかったシェニエは、ゆったりと身を起こした。看守が扉を少し開けて、顔をのぞかせ、すぐに出廷するよう申し渡した。看守が扉を閉ざしたそのすきに、シェニエは枕もとにたたんである下着類をすばやく調べた。その中には、数枚の細長い紙片を、決して目立たぬようにしのばせておいたのだった。のちに家族に下げ渡されるはずの囚人の所持品としては、シェニエには下着があるだけであった。獄中でつづった風刺詩の、最後の幾編。それが人目をくぐりぬけて、家族のもとに下着の包みとともに無事に届けられることを、目を閉じて祈った。
 ついに、来るべき時が来たのだ。敵が倒れるより先に、自分が屠られるのだ。だが、もはやシェニエの心には、いささかも動揺はなかった。否、むしろ、自分の心がみるみる澄んでいくのを覚えた。手にしている、いとおしい詩の紙片を、もう一度、静かに口ずさみながら急ぎ読み返すと、それを再び下着の奥にしのばせた。
 彼の胸には、憤怒も後悔も、逡巡も悲嘆もなかった。ただ、雲一つなく青く澄みきった大空のような心が、どこまでも広がっていくのを覚えた。その心の大空に、これまでに触れ合った人々の懐かしい顔や情景が、次々と浮かんでは消えた。どれも楽しい思い出ばかりであった。苦しい、険しい戦いさえ、今は、心を楽しませる糧であった。変節、転向、背信――それこそが、人間として最も恥ずべき生きざまではないか。自分は、暴虐なる権力という強大な魔性と一人戦って、最後まで節を曲げず、膝を屈せずにきたのだから――。
 彼は、遙か未来を想像しようとした。この歴史の潮流は、大きく音を立てて軋みながら、いずこへ向かおうとしているのであろう。いかなる世が、世紀が、自分のあとに続くのであろう。いかなる人々が、この自由と友愛と正義の壮大なる精神の松明を受け継いでいくだろう。自分は、詩人として世に認められることもなかったが、もし人目に自分の詩が触れるならば、この詩の琴が人々の胸に響くならば、熱い血潮をたぎらせてうたい戦った一人の若人を懐かしみ、その魂を分かちもってくれる人もあるに違いない。そして、正義が、真実が、いずれの側にあったかの証を立ててくれる人もいるに違いあるまい――。
 シェニエは、未来の勝利を信ずると、胸の高鳴りを覚えた。
 次々とめぐる記憶の中に、ビエーブルの谷間で出会い、語り合った少年ルネの面影が浮かんだ。
 シェニエは、微笑んで、語りかけた。
 (ルネ君。君は、まだ若い。僕よりもずっと、ずっと未来を生きることができる。だから、今の混沌たる歴史の結末を、君の目にすることもできるだろう。そして、未来の本当の革命を、つまり、本当の人間解放の道を、探り当てることもできるだろう。僕が、あのとき君に言いたかったことは、それなのだ。がんばりたまえ、ルネ君、もし君が僕のことを想い出してくれるのなら……)
 シェニエは祈りのように目を閉じて、心の中でルネに別れを告げた。
 幾分かが過ぎた。やがて、あらためて呼び出しをうけると、シェニエの身柄は、四輪の箱馬車によって、セーヌの中洲をなすシテ島にある革命裁判所へと移された。
 シェニエが、被告席に着いたのは、午前九時のことである。彼は、高い背もたれに深々と体をあずけて、時の過ぎるのを待った。かつて、最高裁判所の大法廷であった革命法廷は、広くて、薄暗かった。シェニエの脇に、憲兵が一人つき添っている。傍聴席には、見物の群衆がひしめき、そこから嘲笑や罵声がさかんに浴びせかけられたが、シェニエの瞳には微塵の翳りもなく、満足しきって運命に身を託す人に特有の静かな威厳を、かえって高めるばかりであった。
 廷内が一瞬、静まり返ると判事、陪審員、検事達が入廷し、それぞれの席を占めた。正面の一段高い壇上に裁判長と三人の判事が並んだ。その手前下に検事席と、そのすぐ左手に陪審員席があり、九人の陪審員と書記とが着席した。裁判長以下いずれも黒い色の羽根飾りのついた黒い法帽に、黒いコートをまとっている。シェニエと判事のひな壇との間の広い床の中央に、横長のテーブルがある。本来はそれが弁護人の席なのだが、今や革命法廷の審理は、官選弁護人さえも必要としなかった。
 裁判長コファンダールが、開廷を宣し、まず人定尋問から始まった。
 「君は、アンドレ・シェニエか?」
 その声に、シェニエは静かに立って、うなずいた。ついで、年齢、住所、職業が尋ねられた。
 それから、検事が起訴状を読みにかかった。この日の検事は、数多くの政治犯を訴追して断頭台に送り、恐怖政治の執行人として歴史に名をとどめるフーキエ・タンヴィルではなく、リュードンという、タンヴィルの代理人であった。
 シェニエは、居並ぶ黒い法衣姿の一人一人を目で追った。いずれも、どこか深く病み疲れたところがあるような、蒼白い顔つきをしていた。法廷の全てが、陰鬱であった。
4  ルネは、革命裁判所からほど近い、パリの街なかにいた。あのどしゃ降り雨の夜にようやく安宿を探し当て、そこに寝起きしながら、忘れがたい青年詩人の消息を、どうにかして掴もうと、パリの辻から辻を、あてどもなく歩きまわっていたのである。居酒屋の中に人々の声高な政治論議があれば耳を傾け、街頭演説の人山を見つけると、そのなかにまぎれこんだ。
 そうして、ルネは、サン・ラザール牢獄から連日のように囚人の群れが革命裁判所へと引き立てられ、その日のうちに断頭台に送られているという恐るべき事実を知って、戦慄した。だが、それまでの処刑者の中に、シェニエの名を聞き出すことはなかったから、まだあの詩人は牢獄内に生きていると判断した。それ以来、サン・ラザール牢獄から革命裁判所へと至る道を、さらに裁判所から、処刑場のある、パリを東に出はずれたトローヌ広場までの道を、毎日、行きつ戻りつした。もしや、シェニエを護送する馬車に出くわさないともかぎらない。このままあきらめてビエーブルに帰ろうという気持ちには、どうしてもなれなかった。
 同時に、ルネは、一つの希望をいだいていた。それは、人々の噂によると、この恐怖政治の寿命も長くはないだろうということであった。ことによると、あとひと月ともつまい、と言う者もあった。
 パリの人々は、連日の処刑に嫌悪感を募らせていた。対外戦争もようやく勝利らしい形がついて、国境の脅威は薄れたが、それだからこそ、非常時の臨時政府である現政権の存在理由もまた弱まっていた。人々は、何よりも平和を求めていた。非常時を言いわけに、民主憲法の施行が無期限延長されていることへの批判もくすぶっていたし、戦争がなおひどくした食糧不足、インフレ、賃金の最高価格制に対する不満も、全国的な規模で爆発寸前の状態にあった。それ以上に重大なことは、相次ぐ議会内での反対派への粛清が、議員の間に「次は自分の番ではないか」という恐怖や猜疑心を募らせ、それがついにロベスピエール派の内部そのものへと波及して、同士討ちの様相を見せ始めたのである。ロベスピエールをリーダーとして権力を握る公安委員会のうちでも、コロー・デルボワらが“暴君”の排除を公然と口にするようになった。議会でも、ロベスピエール派逮捕への策動が、ひそかに進んでいた。
 ルネは、この四日間で、おぼろげながらそれらのことを知った。
 そうであるなら、もしこの恐怖政治が打倒されるものなら、状況は一変して、今の罪人が、かえって英雄にもなりうるのだ――。ルネは、シェニエの運命を思うあまりに、雨に打たれようと、熱暑を浴びようと、渇こうと疲れようと、ほとんど無頓着なままに往来をさまよい歩いた。そして、時折、通過する囚人馬車に不安な目を凝らして、シェニエの姿を、囚人の間に見分けようとした。
 ルネは、セーヌにかかる両替橋の少し手前で、岸辺に座り込んだ。そうやって休むと、初めて激しい疲労を覚えるのであった。橋向こうの対岸に、革命裁判所の堅牢な建物があり、川べりのその高い塔――悪名高いコンシェルジュリー牢獄が、セーヌの水に影を落としている。前後に衛兵の騎馬をつけた囚人馬車が、裁判所から刑場へと向かうには、確実にこの両替橋を通過するのであった。
 ルネは、空を仰いだ。この日のパリは、どこまでも深く青く澄んだ空色のもとにあった。足もとのセーヌの水も、晴れた光を映して、おびただしい金の砂をまいたように、きらめきわたっている。街じゅうの何もかもが、輝いていた。
 ビエーブルの谷間から空を見て語った、シェニエの言葉が想い出された。
 (……どんなに苦しくても、辛くても、こんなに空が晴れている日には、なんだか希望が胸いっぱいに湧いてくるじゃないか。だから、心の中には、いつも晴れわたった大空を失ってほしくない……)
 ルネは、少し元気を取り戻した。立ち上がると、トローヌ広場に通ずるサンタントワーヌ通りの方へと歩き始めた。
5  検事が、法廷じゅうに響く激越な調子で、訴状を読み上げていた。
 「……事実、被告シェニエは、革命が始まって以来、非国民としての評判をもたらすような著述を続けてきた、鼻もちならない貴族階級である。彼は、公共の精神を堕落させ腐敗させるため、また、専制君主制とその全ての罪を準備するために、専王に買収された文士ではなかったか?人民委員会を解散させ、そのメンバーである全ての愛国者を誹謗し、名誉を傷つけて、追放者を煽動するために外国勢力にやとわれていたのではなかったのか? さらに、憲法原則を支持するように見せかけて反革命を準備し、愛国者の敵となって、『ジュルナル・ド・パリ』に執筆していたのではなかったか?……」
 その内容は、極めて簡潔であった。だが、「専王に買収された文士」「反革命」という言葉だけで、極刑の要件には十分であった。
 「アンドレ・シェニエ。君は、そのような罪状で告訴されているのだ」
 コファンダールがそう言って、シェニエに着席を促した。
 陪審員達が、質問を投げかけてきた。どれも、シェニエが新聞に発表した評論や詩が、彼らにはかっこうの材料になっていた。
 三人の証人が現れて、シェニエに不利な証言を行った。
 買収――それ一つをとってみても、いつも貧乏で、金銭には無頓着だったシェニエには、思いがけない嫌疑であった。だが、弁明も、弁護人も許されない法廷では、戦いの余地は全くなかった。革命法廷は、まだ多くの罪人を裁かねばならない。急ぐ必要があった。
 短い審理がすむと、陪審員達が審議のために、別室へと出て行った。判事、検事は、そのまま居残っている。審理はあっさり片付けられそうな気配が、ありありとしていた。傍聴席から、怒号や嘲笑があがり始めた。「人民の敵! 当然、死刑だ!」という興奮した叫びもあがったが、もはや、澄みきったシェニエの心を、少しも曇らすことはできなかった。短時日のうちに何千人もの命を奪ったこの陰気な法廷に象徴される巨大な暗黒の中で、シェニエの魂は、決して消えない一条の光を放っていたのである。
 ものの十分とたたないうちに、鈴の音が高く鳴った。陪審員達が戻って来る合図である。法廷は、再び水を打ったように静まり返った。黒い法服姿が、次々と入廷して、席に着いた。裁判長が、陪審員の一人一人に意見を求め、それから、自分の左右の判事にも意見をきいた。全てが、まるで機械じかけのように進んでいった。
 最後に、コファンダールは、シェニエの方を見た。
 渇いた判決の声が、法廷じゅうに響いた。
6  ルネは、昼下がりのサンタントワーヌ通りを、バスチーユの方向へと歩いていた。
 (これで四日目か。きょう一日待って会えないなら、あすにはビエーブルに戻らなければ……。父も心配しているだろうし……)
 ようやくルネの頭には、父親の心配顔が浮かび始めていた。
 七月のパリは、日差しは暑くとも、吹く風には涼味があった。歩き続けていても、汗ばむことはなかった。
 教会の鐘が三時を告げて、低く空気をふるわせた。そのとき、その鐘の音を破るように、大きな声が聴こえた。
 「おっ、また死刑囚の馬車が通るぞ!」
 ルネは、われに返って振り向いた。騎兵に衛護された二輪の馬車が、がらがらと大きな車輪の音を響かせて、自分の脇の大通りの中央を行き過ぎようとしていた。
 天蓋のない、荷車のような、浅い大きな馬車に、七、八人の囚人が後ろ手に縛められたまま乗っている。目を凝らしたルネは一瞬、全身が凍りつくような戦慄を覚えた。囚人達の間から、たしかにシェニエの横顔がのぞいた。間違いない、心に描き続けてきた、懐かしい詩人がそこにいた。ルネは、思わず大声で叫ぼうとして、その声を、辛うじて喉もとで呑み込んだ。罪人の名を親しげに呼べば、見とがめられないわけがない。ルネは、はっと思い出したように、脇のポケットから布地を取り出した。それは、シェニエが別れ際にくれた、絹地のスカーフであった。洗うと、輝くばかりに白く、きれいになった。
 大切にとっておいたそのスカーフを、ルネは急いで自分の襟に巻きつけたのである。
 その時、囚人達の真ん中にいたシェニエが、何気なくルネの方に顔を向けた。おだやかな、端正な面差しは少しも変わってはいない。その目が驚いたように見開かれたが、すぐに大きな微笑みに変わった。小さくうなずいてくれたようだった。
 (ああ、僕を分かってくれたのだ)
 ルネは、馬車に負けまいと、早足になった。スカーフが、風にひらひらと舞った。
 すると、シェニエの表情が厳しくなった。少し眉根を寄せて、軽く頭を左右に振っている。
 (ついて来てはいけない。危険だ、いけない)
 シェニエの目が、懸命にそう言っていた。その険しい眼差しに、ルネは、ほとんど駆けだしかけていた歩みを、数歩でとめた。馬車は、すぐ距離を広げていく。車輪の音が、耳を聾するように、ルネの心に反響していた。遠ざかる馬車に、思い切って一度だけ大きく手を振った。だが、囚人達の表情は、もはや読み取ることはできない。頭が錯乱し、足もとから崩れ落ちそうな動揺と、込み上げる嗚咽を必死でこらえた。
 ルネの足は、自然と、刑場のあるトローヌ広場の方へと向かい、バスチーユからサンタントワーヌ場末町の通りを急いだ。激しい胸の動悸をおさえながら、夢中で駆けだしていた。運よくめぐり会えたからには、もう一度、あの詩人に別れを告げたかった。
 サンタントワーヌ場末町の通りを一息に走ってようやくトローヌ広場にたどりつき、左手にあたる林の方に目をやると、ルネは足がすくんだ。木立の間の広い場所に処刑台はすでにととのい、台上に立つ高い柱の頂上あたりに、きらりと金属の閃きが見えた。見物の群衆が取り囲み、その興奮を、太鼓の響きが煽りたてている。
 これが、いつもの光景なのだ。群衆の頭ごしに、警備兵の隊列のものものしい抜剣の波が光っている。ルネは、人波みをかき分けて、少しでも処刑台に近づこうとした。
 すると、太鼓の連打が、ぴたりとやんだ。人々の罵声や喚声もやんで、あたり一帯の空気が急に静まり返った。処刑台の階段に最初の囚人が姿を現したのである。
 ルネは、息を呑んだ。刑吏に腕をつかまえられて、短い階段を上り始めたその後ろ姿は、まぎれもなくシェニエであった。一歩、二歩と、音もなく、後ろ手に縛られたまま、背筋をのばし、取り乱したようすもなく、静かに死の階段を踏みしめていく。着ているものは、ルネと出会ったときと同じように見えた。十歩ほどもない急な木組みの段を上りつめるのを、二人の処刑人が台の上で待っている。
 あと一歩で、台上に上がるというそのとき、シェニエが、ふと足をとめた。それから、空をゆっくりと見上げた。ルネは、はっと胸をつかれた。
 振り仰ぐと、パリの空は、深い藍色をたたえて、一点の雲もなく晴れわたっている。シェニエは、片方の足を台上に置いたまま、最後の一段の上で、しばらく遠くを見上げていた。横顔が、かすかに分かる。一瞬、瞼を閉じて微笑んだように見えた。そうして、シェニエが最後の一歩を、静かに処刑台上に運び終わると、群衆の間から、再びざわめきがあがった。
 そのとき、激しい痛みに締めつけられていたルネの胸に、ふいに古里のビエーブルの日のきらめきや、花の影や、澄みきった空の色が広がり始めた。ルネは、シェニエが晴れた空を仰ぎ見た意味を、そのシェニエの胸にどんな熱い思いがあったかを知っていた。まるでそこで見守っているルネに、無言の別れを語りかけてくれたかのようであった。
 詩人は、空を見上げたとき、最後の誇らかな詩を、心の中にうたったのだ。そして自分の熱い清らかな胸の思いを、その遺志を、遠い未来の大空へと託したのに違いない――今、ルネは、シェニエの心を全身でうけとめようとした。
 そして、もう一度、忘れがたい人の横顔を胸におさめると、ルネは身をめぐらした。静かに、群衆から離れ、広場を去ろうとした。込み上げる悲しみに、涙がとめどもなくあふれ出る。こぶしで何度も瞼をぬぐいながら、重い足をひきずるようにして歩き始めた。
 しばらく行くと、「ワアッ」という恐るべき喚声が、背後からあがった。その瞬間、ルネは雷にうたれたように、全ての記憶が空白になり、足もとの地面が大波をうつような動揺を感じた。だが、振り返ろうという衝動を辛うじてこらえて、気を取り直すと、彼は足を速めた。もはや、行き交う人の表情も、街並みも、何も目に入らなかった。ただ無我夢中で歩いた。そして、歩いていくにつれて、深い悲しみの底から、この自分の歩いて行く方向に、進むべき道が真っすぐに続いているという自覚が萌し始めていた。
 今、この場から、心を決めて確かな一歩を踏み出していくことだ。全ての悲しみも、悔しさも胸におさめ、勇気をふるって乗り越えて、自分の決めた道をどこまでも進んでいくのだ。それこそが、詩人が自分に教えようとしたことではなかったろうか、とルネは思い始めていた。
 (シェニエさん!)
 ルネは、心の中で叫んだ。あの懐かしい笑顔が、脳裡にあざやかに蘇った。詩人は、どこか遠くへ歩み去ろうとしていた。少しその姿が小さくなった。
 (シェニエさん!)
 もう一度、呼んでみた。詩人は、その声に立ちどまり、振り返った。が、ルネに微笑みかけると、ふたたび踵をかえして、静かに遠ざかっていった。
 その頭上には、くまなく晴れあがった青空が広がっている。
 (シェニエさん、きっと、あなたの想い出は、僕の生涯をつらぬき、理想へと、信念へと駆り立ててくれるでしょう)
 いつかシェニエが口ずさんでくれた美しい詩節が、ルネの胸に交響していた。そのいくつもの言葉が、心の中に浮かんでは消えた。やがて十八世紀フランスの時代精神を表現した同世紀最高の詩人としてたたえられるであろう孤高のペンの戦士の言葉は、若いルネを深くとらえていた。そして、信ずる道に自分の存在そのものを賭けて、短い生涯を燃えるように駆け抜けた、その威厳と意志の力も――。
 (ああ、あなたは、物見高い野次馬達の嘲罵の声にも取り乱さず、眉一つ動かさず、微笑みさえ浮かべて、処刑台に上ったことでしょう。ほら、振り仰いでください。いいえ、あなたは、そのとき天を仰いで、この空の青さを胸いっぱいに吸い込んだことでしょう。ああ、刑罰は、有罪の者にこそ恥辱になるもの。あなたは少しも恥じることはないのです。少しも苦痛ではないはずです。なぜなら、罪がないのですから)
 (あなたは詩人、すばらしい詩人でした。政治家でも、ただの文士でもない、どこまでもこの青空に向かって信念の歌をやめない詩人でした。その清らかな夢や大きな心まで葬り去るなど、誰にもできはしない。かえって、全ての人が、その熱い心と美しい詩の調べに気がついて、あなたを惜しみ仰ぐ日が、いつかきっと来るのです)
 ルネは、パリを東に出はずれて、サン・クルーからセーブルにさしかかり、小高い丘道をビエーブルへと急いでいた。ふと足をとめて見返ると、セーヌの川幅の向こうに広がるパリの街並みを、濃い黄昏の色が覆い始めていた。街路や、家々の灯が、少しずつ数を増やしていく。やがて、パリは変わらぬ美しい夜景を見せるのであろう。
 そのとき、パリに別れを告げようとするルネの眼前に、一枚の絵が忽然と浮かび上がった。それは、詩神ミューズを先頭として、真実の自由と平等と友愛の旗のもとに起ち上がる民衆の戦の光景であった。ミューズは、民衆を率いて戦う詩人の大いなる詩心を象徴して、崇高な時代精神を輝かせている。いつか、きっと、本当の民衆の時代がくるだろう。人間の時代がくるだろう。そのために、この絵を描ききってみたい。あの詩人との想い出に。否、詩人が教えてくれたように、新しい歴史の大いなる予告として――。
 ルネは、胸もとのスカーフに手をやった。今は、それは形見となってしまった、真っ白な絹の布。
 (いや、そうじゃない。あの時、シェニエさんは、これが形見となることを知っていたんだ。永遠の別れの記念に、僕にくれたんだ。……死を覚悟していたあの人が真心を込めて教えてくれたように、僕にも僕なりの道がある。革命の道、人間の道がある。それを、どこまでも進んでいこう)
 ルネは、深く心にうなずくと、首からスカーフを取り、遙かトローヌ広場の方角に向かって、頭上に何回も大きく振った。そして、再び大事そうにそれを襟に巻くと、故郷への夕べの道を急いだ。
7  三十二歳の詩人アンドレ・シェニエが、その前途多い命を断頭台に絶ったのは、一七九四年七月二十五日のことであった。
 それから、わずか二日後、いわゆる「テルミドール九日」の政変が起きた。すなわち、議会は全会一致で、ロベスピエール派の逮捕を決定したのである。翌二十八日、ロベスピエールら二十二人は「暴君を倒せ!」と叫ぶ群衆の目の前で、断頭台の露と消えている。
 ただちに、旧時代の多くの政治犯の身柄が自由になったことは、言うまでもない。
 暗い牢獄の門から明るいパリの街通りへと、喜々として生還する彼らの姿があった。
 もし、シェニエがあと二日、獄中に生きながらえていたなら――。
 もはや永遠に埋めることのできない歴史の空白――。
 否、それは、いかなる空白といえるだろうか。一人の詩人の命は、更に生き続けられたであろう幾歳月の空白を優に越え、ロマン派詩の新しい時代を出現させた。
 その詩の琴は、今日もなお美しい命の調べを奏で続けている。
 そして、少年ルネは――?
 ルネは、永遠の少年として、今も生きている。
 どこに?
 ルネが最後にシェニエの姿を見たその日の青い空のように、澄みきった世界中の大空のもとで、未来をめざす全ての少年達の心の中に生きている。

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