Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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神通力如是。於阿僧祇劫。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

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10  自在で楽しい遊楽の人生を開け
 日蓮大聖人は仰せです。「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」──深く妙法に則っていく時、この世の「苦楽ともに」、楽しみ切っていける醍醐味の人生を生きていけるのです。
 また、この「遊楽」を、あえて分ければ、「遊」は人生を自在に生きていくこと、「楽」は人生を心から楽しむこと、と言えるかもしれない。いずれにせよ、根本は自身の生命の境涯です。
 自然にも劇がある。厳冬を越えてこそ春の喜びも大きい。季節の変化があるから一年は美しい。
 人生も同じです。山もあれば、谷もある。しかし、強い生命力と豊かな智慧があれば、険しい山があるから「山登り」が楽しめるように、波があるから「波乗り」が楽しめるように、あらゆる人生の苦難も全部、楽しみながら、乗り越えていける。何ものにも揺るがぬ「常楽我浄」の自身となり、人生となるのです。
 その自在にして金剛不壊の境涯を、戸田先生は「絶対的な幸福境涯」と言われたのです。さらに、大聖人は、この遊楽について、「われらの色法と心法、依報と正報が、ともに一念三千の当体であり、自受用身(自ら広大な法の楽しみを受け用いる身)の仏であるということではあるまいか」(御書一一四三ページ、通解)とも仰せです。
 真実の幸福とは、自らの「身も心も」、また「自分も、環境も、他の人々も」、ともに信心の功徳に潤う幸福です。自分の幸福だけでなく、「自他共の幸福」を祈り、行動していく。これが、法華経の心です。皆さまこそ、最高の幸福の道、遊楽の人生を歩んでいるのです。
 「諸天撃天鼓」。天界の人々が「天の鼓」を打ち鳴らしているというのです。
 この「天鼓」とは、もとは、雷鳴に由来する。インドでは、カミナリは恵みの雨を告げる天の「喜びの音楽」だったようです。一つの次元から言えば、これは最高の幸福に弾む「喜びの心」を表しているともいえるでしょう。
 「常作衆伎楽」。天界の人々がつねに、さまざまな伎楽を奏でている。戸田先生は、この経文をこう教えてくださいました。
 「常に音楽がなっているというのは、なにもラジオではありません。これはお父さんが帰ってきて、『ああ、きょうは愉快だったよ、こうだよ』、奥さんは『お父さん、きょうは隣の猫がニャンと鳴いたのよ』、坊やは『学校の先生が歩いていたよ』、そうして、一家が笑いさざめいて暮らせるとすれば、常に伎楽を作しているのではないでしょうか。
 ところが、おやじが、破れ太鼓みたいな声で怒鳴り出し、女房がキーキーいって、子供がオーッと泣く。これはいい音楽ではありません」(『戸田城聖全集』6)
 私たちの瞬間瞬間、一日一日の生活が、自分の「常作衆伎楽」になっている。全部、生命の境涯のとおりの音楽になっているのです。同じ生きるのなら、私たちは、希望と幸福の「妙音」を奏でていきたい。見事な人生を勝ち取ったという「凱歌」を歌いたい。
11  妙法の音声で民衆凱歌の時代を
 創価学会には、人生を生きぬく歓びの声、希望と確信ある声が、つねに響いています。まさに「諸天撃天鼓 常作衆伎楽」の姿です。一つ一つが人々を幸の音色で包む「経」であり、「声仏事を為す」(御書七〇八ページ)姿なのです。
 大聖人は「南無妙法蓮華経は師子吼の如し」と仰せです。日々、私たちが唱えるその大音声は、悲哀と嘆きの「哀音」を破り、民衆の凱歌の時代を確実につくっているのです。
 「雨曼陀羅華」心を喜ばせる曼陀羅華が、天から降り注ぐというのです。妙法の世界に降る天華です。これは、妙法に住する人、すなわち、地道に信心を貫いた人が、必ず、幸福と福徳の花に包まれ、諸天にも祝福されていくことを示しているのではないでしょうか。
 また、たとえば、子どもが何かで頑張った時、「よくやったね」とほめてあげる。それで喜び勇んで行えば、さらに力が出る。「心を喜ばせる」ことが「雨曼陀羅華」に通じていくのです。
 「散仏及大衆」。福徳の花は、仏にも衆生にも、平等に降り注ぎます。何の差別もありません。
 ここからも分かるように、仏も衆生も同じ「裟婆世界」の大地に立っている。永遠の幸福を実現する舞台は、私たちが生きている「今、ここに」あるのです。

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