Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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為度衆生故。方便現涅槃。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

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6  ″つねに仏と共に″の人生は強い
 今世だけではない。三世にわたって衆生を見守ってくれる「親」が、寿量品に明かされている「永遠の仏」なのです。とはいえ、自らの心に厳然と具わる仏も、顛倒の衆生には見ることができない。そこで、日蓮大聖人が御自身の仏の生命を御本尊として御認めくださったのです。この御本尊を鏡として自身の心の御本尊を見ることができるのです。
 大聖人は「阿仏房御書」にこう仰せです。
 「阿仏房、あなたはそのまま(御本尊として認めた、法華経に説かれる多宝如来の)宝塔です。宝塔はそのまま、阿仏房、あなたです」「また自身がそのまま三身即一身の本覚の如来なのです。このように信じて南無妙法蓮華経と唱えなさい。そうすれば、ここがそのまま宝塔の住所です」(御書一三〇四ページ、通解)と。御本尊に祈る自身は、そのまま御本尊と等しくなる。御本尊という鏡に照らせば、自身の仏界が自ずと浮かび上がってくるのです。
 御本尊は、大聖人の御魂をそのまま認められた仏の生命そのものであられる。仏は御本尊として厳然と常住している。けれども、「信」が、なければ、紙や木にしか見えないでしょう。しかし、尊い仏の生命なのです。
 「御義口伝」には「常住此説法」の「常住」について、「法華経の行者のいる所である」と述べられ、「此(ここ)」とはこの苦難に満ちた「裟婆世界」であると仰せである(御書七五六ページ)。信心根本に苦難を乗り越えて、正しい人生を歩む行動の人のところに、仏は常住するのです。
 また「常住此説法」の「説法」について、「末法においては南無妙法蓮華経の唱題の声が自受用身の仏の声であり説法である」(御書七五六ページ、趣意)と示されています。御本尊に題目を唱える私たち自身に、自受用身の仏(妙法の功徳を自ら受け用いる慈悲即智慧の仏)の生命が涌現するのです。
 すなわち、信心根本の人には、仏の智慧がはたらき、仏の功徳が自ずと具わる、と仰せなのです。″どんな苦悩も御本尊と一緒なら乗り越えられる″との絶対の確信があれば、無限の希望の光が降り注ぎ、無限の力が涌き上がるのです。これほど強い人生はありません。
7  妙法の同志は来世も広布の陣列へ
 戸田先生は、この「方便現涅槃」が「生命は永遠であると説きながら、なぜ死ぬのかという問題」を明かしたものであると語られました。すなわち、「生死不二」という永遠の境涯から見れば、死は方便であることを教えられた。
 戸田先生は、死をよく睡眠に譬えられた。長く起きていて疲れたら眠る。ぐっすり眠って起きれば、元気が戻る。長く生きていて疲れたら死ぬ。そして元気になって新たな人生を始める。死は、次の生のための充電期間なのです。
 妙法に生きた人は、すぐに生まれて、来世も広宣流布の陣列に戻ってくる。最高に充実した願いどおりの使命の人生で活躍できる。ゆえに、死を恐れることもなければ、諦めて開き直ることもない。この真実をしっかと見つめて、堂々と、また悠然と生きて生きて生きぬくのが、仏法者の生き方です。今世も生きぬき、三世を生きぬくのです。
 ただし、戸田先生も強調されていましたが、永遠の生命といっても、″生まれ変わる″のではない。過去世から今世へ、また今世から来世へ、生命自体は連続している。因果の理法は三世永遠である。生命に刻まれた善悪の因はそのままでは消えない。
 戸田先生は、私たちの生命は死後、宇宙に冥伏する、溶けこむのだ、と教えられた。
 ──溶けこんだけれども、他と混じり合ったりはしない。それぞれが独立していて、生前の行いに応じて、いろいろな喜びや悲しみを感ずる。それは夢の中で、泣いたり笑ったりしているようなものである。そして、何かのきっかけで夢から覚めるように、縁に応じて再び生まれてくるのである──と。
 だから、″来世があるから今世では手を抜こう″というわけにはいかない。また″今世の、一回限りの人生だから、好き勝手をしよう″というわけにもいきません
 宿命を根本的に打開するのが大聖人の仏法です。真に「永遠の生命観」に立てば、まず「今世」が変わるのです。
 御本尊に祈る時、生命の奥底からの変革が起こる。強く清らかな生命力が、ふつふつと涌き上がる。宿命の鉄鎖を断ち切り、生命本来のすがすがしく、たくましい仏界の姿が現れるのです。
 つねに「新たな命」として生きる──それが、私どもの「人間革命」の生涯なのです。

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