Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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自我偈の意義  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
6  戸田先生は教えた「自らの命に生きよ」
 釈尊は、「弘教の旅」を開始してまもないころ、森で出会った青年たちに、「自分を探せ」と教えています。「自分を探せ!」「真実の自己を知れ!」「自分の足下を掘れ!」。そこに「幸福の泉」がある。「希望の道」がある。ゆえに、戸田先生は、いつも「自らの命に生きよ」「自己自身に生きよ」と言われていた。
 「貧乏して悩むのも、事業に失敗して苦しむのも、夫婦げんかをして悲哀を味わうのも、あるいは火ばちにつまずいて、けがをするのも、結局、それは皆自己自身の生活である。
 すなわち、自己自身の生命現象の発露である。かく考えるならば、いっさいの人生生活は、自己の生命の変化である。ゆえに、よりよく変化して、絶えず幸福をつかんでいくということが大事ではないか。
 されば、自己自身に生きよ‥‥いや、自己自身に生きる以外にはないのだ、ということを知らなければならない。あの人が、こうしてくれればよいのだとか、この世の中がこうであればしあわせなのだといって、他人に生き、対境に生きるということは間違いではないか」(『戸田城聖全集』1)
 どこまでいっても、「自分」から逃げることはできない。幸福も、不幸も、人生の一切は、この「自身」の二字に納まってしまう。結局、どうしても逃れられない、この「自身」というものを、いかに鍛え上げ、いかに荘厳していくのか。ここに、人生の勝負がある。
 風向きしだいで、右往左往するような弱い「自身」であってはならない。反対に、正邪を深く見極め、確固たる自分自身をもつ人は、つまらない世評には紛動されないものです。屹立した「自分」です。「われ本来仏なり!」、その本当の「自分自身」が、どれほどすごいか、どれほど偉大か──自我偈は、それを讃嘆しているのです。
7  「生命の詩」を口ずさみ、ヒマラヤのごとく堂々と
 ネパールを訪問した折(一九九五年)、カトマンズ郊外のヒマラヤの見える丘で、地元の村の子どもたちと語り合いました。皆、利発で、かわいかった。曇りなき、輝く瞳をしていました。私は、子どもたちに語りました。
 「仏陀は、偉大なヒマラヤを見て育ったんです。あの山々のような人間になろうと頑張ったのです。堂々とそびえる勝利の人へと、自分自身をつくり上げたのです」
 ヒマラヤのごとく堂々たる自身を築け──これが仏法の心です。また、必ず、そうした「勝ち誇る自分自身」になれるのです。さあ、楽しく、歌を歌いながら、快活にが″生命の詩″を口ずさみながら、悠々と、堂々と前進しましょう! 最高の自分の人生のために、人びとの幸福のために、世界の平和のために。
 その皆さまの「振る舞い」そのものが、三世永遠に輝く「大いなる自分自身の賛歌」なのです。

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