Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

自我偈の意義  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
4  仏の広大で永遠の生命を明かす
 大聖人は、法華経の文字は、一文字一文字が「金色の釈尊」(御書一〇二五ページ)であると仰せです。そして、自我偈の意義をさらに分かりやすく述べておられる。すなわち、″この自我偈の金色の文字は全部で五百十字ある。この一つ一つの文字が、私たちが読誦した時に、太陽となり、仏となり、いかなる世界をも照らし、全宇宙をも照らす。あらゆる人を救うことができる″(御書一〇五〇ページ、趣意)と。
 自我偈は、全人類を照らす経文です。この人類の至宝である経文を、私たちは毎日、朝に晩に読誦しているのです。その大功徳は計り知れません。
 また、私たちは、自我偈を読誦しているだけでなく、自我偈の実践者であり、証明者でもあります。自我偈の功徳を全人類に伝え、弘めているのです。日蓮大聖人、三世十方の諸仏の讃嘆は間違いありません。なんとすばらしいことでしょうか。なんとありがたいことでしょうか。
 さて、一文字一文字が仏であるということは、言い換えれば、自我偈は、仏の生命自体を表しているということです。
 大聖人は、「御義口伝」で、「自我得仏来」の最初の「自」と、終わりの「速成就仏身」の「身」を合わせて「始終自身なり」(御書七五九ページ)と仰せです。すなわち、自我偈とは、終始一貫して、仏の「自身」、仏の生命を説いたものであるとの御指南です。
 大聖人は、また、この「自」と「身」の間に説かれる自我偈の全文は、すべて「自身」の活動、振る舞いを意味しているとされている。
 そこで、「御義口伝」には「自我偈は自受用身なり」(同ページ)と仰せです。自受用身とは、「ほしいままに受け用いる身」と読み、宇宙全体を「自身」と開き、宇宙根源の妙法の力を自在に受け用いる身」のことです。つまり、自我偈は、大聖人御自身の自由自在の御境涯を表している経文だと仰せられているのです。
 あたかも大宇宙を自在に遊戯するごとく、一切の障りもなく、しかも永遠に続く金剛不壊の幸福境涯──その広大にして、永遠なる生命を説き明かしたのが自我偈なのです。また、この「自受用身」とは「出尊形の仏」とも言います。すなわち、色相荘厳に飾られた「尊形」を出た、凡夫のありのままの姿です。
5  仏の境涯の詩、″大いなる自身″の讃歌
 戸田先生は、自我偈について、「仏自身の経文であり、われわれ自身の経文なのです」(『戸田城聖全集』2)と言われていました。いわば、自我偶偈偉大なる「自身」を讃嘆した、三世にわたる「自身」の自在の境涯をうたった詩なのです。
 大聖人は「一人を手本として一切衆生平等」と仰せです。自我偈も、久遠の本仏の「自身」のことをうたっていると同時に、私たち「自身」のことを賛嘆しています。
 「『自分自身』をわたしは歌う」(『草の葉』上、杉木喬・鍋島能弘・酒本雅之訳、岩波文庫)──アメリカの民衆詩人ホイットマンの″人間賛歌″は、こんな言葉で始まります。彼は、力強く、確信に満ち満ちて、うたいました。
 「どんな人びとの内部にも、ぼくは、ぼく自身の姿を認める、誰も、ぼくよりぬきんでる者はなく、ひとりとして大麦のひと粒ほどに劣る者もいない」
 「ぼくは堅実にして健全」「ぼくは不滅」「ぼくは荘厳」「ぼくはありのままに存在する、それだけでたくさんだ」(同前)
 彼も、「人間自身」のなかに、「自分自身」のなかに、神聖にして尊極の光を見ていました。まさに自我偈に通ずる心です。こうした本来の「大いなる自分」に気づく道を教えたのが、仏法なのです。
6  戸田先生は教えた「自らの命に生きよ」
 釈尊は、「弘教の旅」を開始してまもないころ、森で出会った青年たちに、「自分を探せ」と教えています。「自分を探せ!」「真実の自己を知れ!」「自分の足下を掘れ!」。そこに「幸福の泉」がある。「希望の道」がある。ゆえに、戸田先生は、いつも「自らの命に生きよ」「自己自身に生きよ」と言われていた。
 「貧乏して悩むのも、事業に失敗して苦しむのも、夫婦げんかをして悲哀を味わうのも、あるいは火ばちにつまずいて、けがをするのも、結局、それは皆自己自身の生活である。
 すなわち、自己自身の生命現象の発露である。かく考えるならば、いっさいの人生生活は、自己の生命の変化である。ゆえに、よりよく変化して、絶えず幸福をつかんでいくということが大事ではないか。
 されば、自己自身に生きよ‥‥いや、自己自身に生きる以外にはないのだ、ということを知らなければならない。あの人が、こうしてくれればよいのだとか、この世の中がこうであればしあわせなのだといって、他人に生き、対境に生きるということは間違いではないか」(『戸田城聖全集』1)
 どこまでいっても、「自分」から逃げることはできない。幸福も、不幸も、人生の一切は、この「自身」の二字に納まってしまう。結局、どうしても逃れられない、この「自身」というものを、いかに鍛え上げ、いかに荘厳していくのか。ここに、人生の勝負がある。
 風向きしだいで、右往左往するような弱い「自身」であってはならない。反対に、正邪を深く見極め、確固たる自分自身をもつ人は、つまらない世評には紛動されないものです。屹立した「自分」です。「われ本来仏なり!」、その本当の「自分自身」が、どれほどすごいか、どれほど偉大か──自我偈は、それを讃嘆しているのです。
7  「生命の詩」を口ずさみ、ヒマラヤのごとく堂々と
 ネパールを訪問した折(一九九五年)、カトマンズ郊外のヒマラヤの見える丘で、地元の村の子どもたちと語り合いました。皆、利発で、かわいかった。曇りなき、輝く瞳をしていました。私は、子どもたちに語りました。
 「仏陀は、偉大なヒマラヤを見て育ったんです。あの山々のような人間になろうと頑張ったのです。堂々とそびえる勝利の人へと、自分自身をつくり上げたのです」
 ヒマラヤのごとく堂々たる自身を築け──これが仏法の心です。また、必ず、そうした「勝ち誇る自分自身」になれるのです。さあ、楽しく、歌を歌いながら、快活にが″生命の詩″を口ずさみながら、悠々と、堂々と前進しましょう! 最高の自分の人生のために、人びとの幸福のために、世界の平和のために。
 その皆さまの「振る舞い」そのものが、三世永遠に輝く「大いなる自分自身の賛歌」なのです。

1
4