Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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其諸子中。不失心者。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
8  〔講義〕
 どうしても薬を飲まない子どもたちを見て、父は思いました。「この子たちこそ、あわれむべきだ(此子可愍)」と。
 すごい言葉です。一人たりとも救わずにはおくものかとの大慈悲心が伝わってきます。しかし、父は決して力ずくで薬を飲ませようとはしませんでした。「強制」では、人々の心の奥にひそむ「顛倒の命命」を変えることはできない。人々が″自分で″薬を手にして、″自分で″飲むことが大切なのです。
 なぜならば、そこにこそ、顛倒の命ではなく、自分のおかれている状態をまっすぐに見る「正見」の生命が、すでに生まれているからです。
 「自発の力を生み出してほしい」──子を思う慈悲ゆえに、父は強制ではなく智慧を使います。
 「どうすれば、自ら薬を飲むだろうか。よし、方便を使って、この子どもたちに薬を飲ませよう」
 この方便とは、自分がまもなく死ぬと告げることです。父は「私は、表え老いてしまった。死ぬ時が来たようだ。良薬をここにおくから、飲むとよい。苦しみが治らないと不安になることはない。絶対に治るから」と語るのです。そして、旅に出て、自分が亡くなったと人に告げさせる。
 父は、本当は死んでいません。亡くなったと子どもたちに思わせた。それによって、「父親に何とかしてもらいたい」という依存心や顛倒の生命を、打ち破ろうとしたのです。
 「方便」が、仏の慈悲の現れであることは何度も述べました。つねに仏が存在していては、衆生は甘えてしまう。それでは、衆生を仏と同じ境涯まで引き上げるという目的は達成できません。そこで仏は大慈大悲を起こし、最高の方便として入滅の姿を示すのです。
9  「今留とは末法なり」「日本国なり」
 「今留在此(今留めて此にく)」とは、一往は釈尊が、滅後の衆生のために、法華経を一閻浮提(全世界)に残すということです。
 これを文底から読むとどうなるか。
 「御義口伝」には「今留とは末法なり此とは一閻浮提の中には日本国なり」と、仰せになっています。日本は「一闡提(正法を求める心がない者)が生み広げた国」(御書九五九ページ、趣意)です。もったいなくも大聖人は、この一闡提の国に出現されました。そして、末法の顛倒の衆生のために、南無妙法蓮華経の大法を残されたのです。
 また、「汝可取服。勿憂不差」について、大聖人は「汝」とは末法の一切衆生であると仰せです。そして「取る」とは、南無妙法蓮華経を受持することです。「服す」とは唱題です。大聖人は、「服することにより、無作の三身があらわれ、始成正覚の病が癒える」(御書七五六ページ、通解)と述べられています。
 ″始成正覚の病″とは、釈尊が今世で始めて仏になったという考え方にこだわることです。仏と衆生とは隔絶した存在であると思っている限り、私たちは、自身の中にある偉大な生命に気づかない。
 妙法は、人々に「自分も、もともと仏であった」ことを教える大法です。仏の偉大な生命が胸中にあらわれれば、すべての苦悩は太陽に照らされた朝露のように消え去るのです。そうすれば、「勿憂不差」です。心配はいりません。絶対に幸福になる、そう仏が断言しているのです。

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