Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

如是。我成仏己来。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
10  「大善は菩薩の行にあり」と牧口先生
 軽やかに、粘り強く、そして人間の中へ──この不軽の実践こそ、成仏の本因、すなわち久遠の菩薩道に通ずる、と私は思う。人間の中で妙法を語り、讃嘆する実践が、自身の妙法への信を深め、ついには本果へと至る。実践こそ妙なのです。
 牧口先生は言われました。
 「いかなる生活法でも生活しないものには分からないごとく、大善生活法は菩薩行をしない中小善の生活者には分からないはずである。行をしなければ本当の信心は起こり得ないであろう」と。
 菩薩行を実践してこそ本当の信心が分かる。「行」があってこそ、信心の深き意義と無量の功徳を体得できるのです。
 「本因」の生き方──それは、民衆の中へ、作業着を着て飛び込んでいく実践者の人生です。特別に着飾る必要など何もない。赤裸々な人間として、無作の振る舞いで、人々に安心を与え、心田に幸福の種を植え付けていく。それが本因の菩薩行です。
 大聖人は、本因妙の仏です。御本仏であられるが、あくまでも凡夫の立場で菩薩道を実践された。終始一貫して、凡夫として戦われた凡夫即極。これが大聖人の仏法の精髄です。
 竜の口の発迹顕本後も、色相荘厳の仏のような特別な姿を現したわけではない。しかし、胸中には久遠元初の法が赫々と輝いておられる。末法万年のために御本仏としての振る舞いを行じられている。「人間」としての究極の姿を示された。これが大聖人の発迹顕本です。
 私たちの仏道修行は、本果を高く仰ぎ見る修行ではない。受持即観心ですから、瞬時にして仏界を涌現することができる。
 その仏界の生命を基底としつつ、あえて、九界に向かうことが本因の菩薩道なのです。いわば、仏界を基調に、現実の九界の社会に飛び込んでいくのです。
 すなわち、勤行・唱題という自行と妙法流布の化他行とを絶えず往復する。この連続行動の中に、仏界を顕す要諦があるのです。したがって、本因妙の仏法は、絶えず、現実生活、時代社会を志向した生き方、実践の中にこそある。ゆえに、大聖人の仏法では、信心即生活、仏法即社会が法理の中核に位置づけられているのです。
11  ″いよいよこれから″と連続行動を
 これまでも、さまざまな機会に語ってきましたが、日淳上人は、本因妙の精神について、こう述べられている。
 「仏様の御化導の上の姿の判別にのみ用いて自分の生活様式の範であることに気がつかぬなら本因下種の御教は死んでいる」(『日淳上人全集』)と。
 私もそのとおりだと思う。現実生活から遊離した仏法談義はそれ自体、御本仏の御心を断っている
 日淳上人はまた、「本因下種とは常に此れからだという心持ちであることであるといって差支えあるまい」(同前)とも述べている。
 私も、いつも語ってきました。「いよいよ」の心に、大聖人の本因妙の仏法の魂がある、と。「今だ」「これからだ」と、どこまでも「現在」から「未来」へと挑戦し続ける。それが本因妙の人生です。皆さまにもこの生き方を会得していただきたい。「本因妙」の赫々たる″太陽″が昇れば、宿業等の過去の因果は″星辰″のごときもので、急速に光を失っていくのです。
 この講義の中でも一度、ふれましたが(本巻一八七ページ参照)、戸田先生は、何度も教えられていた。──妙法に帰依しゆくとき、途中の因果が、みな消え去って、久遠の凡夫が出現する、と。
 「久遠の即夫」とは、地涌の菩薩の異名です。地涌の菩薩は、苦悩の衆生を救うために、自ら、悪世に生まれてくる。自ら、「因位」の立場に立って、願って宿業を持って生まれてくる。それは、宿業転換のドラマを演じ、仏法の偉大さを証明するためです。
 それゆえ、私たちは、一人一人の宿業の違いはあっても、信心を根本に広宣流布に邁進しているとき、すべてが転重軽受、宿命転換となっているのです。「地獄の苦みぱつときへて」と仰せです。妙法を受持した以上、もはや罪障も罪障ではない。
 御本尊を受持すれば、仏の因行も果徳も、すべて私たちの身のうえに得ることができる。過去の罪障は、すべて仏界の大境涯を開きゆくカギとなる。煩悩は即菩提であり、苦難は即安楽と開けるのです。
12  本因妙の精神は「無限の希望」「永遠の向上」
 仏界にも苦悩の九界が具わり、また九界の現実に即してしか仏界も顕れない。十界互具という生命の実相が現れるのです。
 大切なことは、苦難があっても、絶対に、ひるまぬことです。嘆きや疑い等の弱き心を持つてはならない。「これからだ」という強き一念が、一念三千の法理に則り、三千次元に回転して、崩れぬ幸福の大境涯をもたらすのです。
 苦しみにつけ、喜びにつけ、一心にただ一生成仏を願ぃ、妙法を唱えていく。何があろうとも、そのたびに一歩また一歩、強き心で広宣流布へと勇んで進んでいく。その強盛なる「信心」を貫く人こそ、瞬間、瞬間、かぎりなく御本仏の大慈悲に生命が包まれゆく人なのです。ここに「本因妙の仏法」のすぼらしき醍醐味があります。
 釈尊は、こう語っている。
 「過去を追うな/未来をいたずらに願うな/過去は、すでに捨てられたのである/また未来は未だ到達していない/現在のことがらを、現実の中でよく見極め/揺らぐことなく、また動ずることなく/それを明らかに知った人は/その境地をいちだんと高めよ/ただ今日まさに為すべきことを心を尽くしてなせ」(一夜賢者経)と。
 大切なことは、今、この瞬間です。現在の一念です。決意です。過去の業因業果の呪縛を自らの内発の力で断つことが、確たる幸福への軌道に乗ることになるのです。永遠の幸福境涯、最高の人生を目指して、つねに生命の本源から出発していくのが「本因妙」の信心です。本因妙の精神とは、「無限の希望」「永遠の向上」にあるのです。
 ゆえに、私たちは、毎日、つねに本源の出発点に立ち戻り、そこから新たに前進を開始するのです。勤行・唱題は、毎日、久遠元初の世界に立ち返る秘法です。毎日が久遠元初からの出発です。永遠に原点から出発し続ける信心──これが「本因妙の仏法」なのです。

1
10