Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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所以者何。如来如実知見。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

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9  「一身即三身・三身即一身の仏」とは日蓮大聖人
 文底から言えば「一身即三身・三身即一身」の仏とは、南無妙法蓮華経如来すなわち日蓮大聖人です。
 文上の久遠の仏においては、修行の結果として成就した報身の一身に三身が具わることが示されました。これに対して、文底においては、凡夫の一身に三身が本来、具わっているのです。これを「無作の三身」といいます。「無作」というのは、この大宇宙に本来、三身の徳が具わっており、作り改める必要がないからです。したがって、また、凡夫の姿を改めることなく、この仏身を成就することができるからです。
 そして、この「無作の三身」こそが究極の仏身です。寿量品の本意は、釈尊滅後の一切衆生を救うことにあります。この救済を可能にするために、寿量品の文底に、究極の「無作の三身」が秘沈されているのです。ゆえに、大聖人は、″寿量品ではいったい、何が説かれているのか″という問いを立て、次のように答えられています。
 「われら凡夫は、無始以来、生死の苦悩の底に沈んで、仏道の到達点を夢にも知らなかった。しかし、寿量品では、その衆生の世界を無作の三身となして、一念三千の極理を説いているのである」(御書一二八〇ページ、通解)と。
 大宇宙を如実知見すれば、宇宙には、本来、三身の徳が具わっているのです。それが生死の苦悩に沈む衆生の世界の実相なのです。この宇宙は、物質を生み出し、星々を生み出し、そして地球上には、山河や大海を生み出し、やがて生命をも生み出してきました。そして、数億年をかけて種々の生命体を次々と生み出し、ついには人類を生み出したのです。これらはすべて無作三身の働きだと言うこともできるでしょう。
10  無作の三身は「信の一字」に具わる
 戸田先生は、一瞬一瞬の生命や現象が、すなわち如来であると言われていた。また、命を生み出し、命を育む働きは、宇宙に本然的に具わる「慈悲の行業」である、と見ぬかれていました。
 そして、この慈悲の行業をつねに行おうとしている宇宙が、「時」を感じて、冥伏している仏界を顕現させる、それが仏の出現であると教えられていた。
 では、この無作の三身を、われらはどうすれば覚知できるのか。
 大聖人は仰せです。
 「此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり
 「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり
 「信心」にこそ、無作の三身が現れるのです。尊極の妙法も、仏の無量の智慧も、衆生を救済する慈悲の働きも、すべて「信心」に納まる。だから「信心」に徹する人に智慧が現れないわけがない。
 戸田先生は、言われていた。
 「大御本尊様を信じまいらせて題目を唱うるとき、信は因となり、口唱は果となって、この信行具時にして仏果をえ、われわれの生命のなかに、久遠無作三身如来の御生命がヒシヒシと流れつたわってくるのである。
 また、「大御本尊の大功徳は、すべて、われわれ凡夫の一日一日の生活のなかに、ほとばしり出ているのである。われわれ凡夫は、ひたすらに、御本仏の大慈悲心、大智慧カを信じまいらせることによってのみ、御本仏の眷属として、即身成仏と開覚されるのである。これ以外に、『仏』というものは絶対にない」(『戸田城聖全集』3)と。それほどすごい御本尊なのです。「信心」に生き切った人は、それほど偉大な幸福境涯になれるのです。
 しかも、「無作」である。飾らず、繕わず、自分らしく悠々と仏の境涯を開いていけるのです。だから「信心」に徹することが大切なのです。「無作の三身」──それは、平凡にして偉大なる「信心の王者」の異名なのです。

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