Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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諸善男子。於是中間。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

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6  御本尊の功徳とは仏の″無量の大生命力″
 さて、経文には、久遠実成の釈尊が、自分を求める人々を救うために、どのように応ずるのかが詳しく説かれています。
 まず、仏は、衆生の機根が優れているか劣っているかを仏眼で洞察し、どう救うべきかを把握する。そして、それに応じて、種々の国土に出現して、自分について「名字の不同」(種々の異なる名前)や「年紀の大小」(寿命の長短)を説き分けた。つまり、名前や寿命が異なるさまざまな仏・菩薩等として出現したというのです。
 さらに、″これから涅槃に入ろう″と言って入滅した、とも説かれています。本当は、久遠実成の仏の生命は永遠です。しかし、人々を導くための方便として、仮に寿命を種々に区切り、種々の名を名乗って出現し、入滅したのです。
 いわば過去の仏・菩薩は、久遠実成の釈尊の″分身″として現れて、みなを指導してきたのだというのです。仏は永遠の寿命を自在に分かち、人々を教え導くのです。永遠の寿命とは、仏の無量の功徳です。「寿量とは仏の功徳を量ることである」(大正三十四巻一二七ページ)という天台の言葉もある。
 自身の寿命を完全燃焼させながら、あらゆる時代、あらゆる場所で、民衆に功徳を与えきってきた。
 仏が衆生を救うとは、いわば自身の寿命である大生命力を、人々に分かち与えることなのです。
 仏の功徳とは、根本的には「生命力」です。「生きぬく力」です。その仏の寿命(生命力)がじつは無量である、と明かしているのが寿量品なのです。私たちは日々、御本尊からこの無量の生命力をいただいている。功徳をいただいているのです。ゆえに、この御本尊の大功徳を讃嘆すればするほど、わが生命もますます威光勢力を増していく。輝きを放っていく。
7  仏法は最高の「健康」「長寿」の法
 御本尊への信心を根本として、人々の幸福のために祈り、動き、語る──そのリズム正しい繰り返しこそ、わが生命・生活を「長寿へ」「健康へ」「幸福へ」と向かわせるのです。
 私が以前、人生を健康で生きぬくために提案した次の″四つのモットー″も、この″信心即生活のリズム″を分かりやすく述べたものです。①張りのある勤行②無理と無駄のない生活③献身の行動④教養のある食生活、の四項目──。いわば信心は、最高の「健康の法」「長寿の法」でもあるのです。
 以上の経文を、文底の立場から読めば次のように言えます
 まず、「我が所に来至せば」──仏の前に衆生が集うこことは、文底から言えば、御本尊の前に私たちが端座することです。仏は、衆生の機根を見て、それぞれの状態に応じて法を説く──末法で言えば、万人を救済する日蓮大聖人の慈悲の御振る舞いです。
 戸田先生は、この経文について、御本尊が、われわれの信心などを観じ、大きな慈悲をくださるのであると述べられました。
 「諸根利鈍」とは、私たちの立場で言えば、信心の厚薄といえる。信心が深まれば深まるほど、御本尊の無量の功力を顕すことができるのです。
8  さらに、戸田先生は、次のようにも講義された。
 ──大聖人が、入滅に先立たれて、末法の私たちのために御本尊を残された。生きていらっしゃる時には日蓮大聖人と仰せられ、亡くなられては一閣浮提総与の大御本尊と仰せられる。これが「名字の不同」であり、「年紀の大小」である。仏の正体である──と。
 言うまでもなく、大聖人の仏法は、末法万年の大法です。未来永遠にわたって全人類を照らす光源です。「年紀」は無限です。
 また、「種種の方便を以て、微妙の法を説いて、能く衆生をして歓喜の心を発さしめき」とは、妙法蓮華経を説き、御本尊の力によって、大歓喜をわかせることにほかなりません。真剣に妙法を受持して、不幸になることなど、断じてありません。絶対にない。
 戸田先生は、御本尊を拝んで大歓喜がわかなくては真の信心とは言えない、とまで言われました。
 歓喜があれば、功徳の大輪は、ますます大きくなる。
 しかし、「こればかりは『それ、歓喜、歓喜』などと言っているだけでは、歓喜は出てこない。勤行で足がしびれて、『まだ終わらないか、ああ、歓喜、歓喜』──それでは歓喜になりません」とも語られていました。
 勇んで為すのが信心です。真剣に戦っていればこそ心が弾む。仏法に悲壮感はありません。″正義は楽し″です。にぎやかにして楽しく、明るく信念の道を進んでまいりたい。

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