Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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舎利弗。如来能。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

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7  苦しみを大歓喜の人生へ
 信心をしていても、現実の人生で、苦しいこと、悲しいこと、いやなことは避けられない。けれども、煩悩即菩提で、必ず「悦可衆心」の境涯を味わえるのが、日蓮大聖人の仏法です。信心で進めば、″苦しみの人生″を″大歓喜の人生″に必ず変えることができる。戸田先生は、「悦可衆心」について、こう語られました。
 ──十年、信心をしっかりやれば、その人の生命は、じつに清らかな生命になり、皮膚といい、目の様子といい、一つ一つの動作といい、みな、柔和な、清浄なものを、それでいて威厳のあるものを持つようになる。それが御本尊の功徳である。そうなると、悦可衆心、われわれの心を悦ばしめてくる。そうなった人は、いつでも晴ればれしいから、悦ばざるを得ない。
 うれしくなって、いつでも笑いがあり、いつでも朗らかだから、その人が商売すれば繁盛してくる。同じ買うならあのおカミさんのところへ行って買おう、ということになる。それが、悦可衆心です──と。題目で洗われた生命から、じっくりと、にじみ出てくる清らかな喜び。いわば「悩みをも友だちにして」上手につき合いながら、どんな状況からも楽しみを見つけ、喜んでいける達人の境涯。
 大聖人は「苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへさせ給へ」と仰せです。「苦楽ともに思い合せて」が極意です。
 苦労がなければ人生の味わいもない。人は苦労から学び、苦労から養分を得て、喜びの花を咲かせるのです。悩みと喜びは、表裏一体です。この真理に目覚めるところに、真の人間の強さ、人生の深さがある。
 文豪トルストイも、苦悩と戦い続けました。教会の権威で「破門」された時も、悠然と見下ろした。燃え上がる闘争の一念があった。その彼の結論が、何があっても「喜べ」という信条です。
 「喜べ! 喜べ! 人生の事業、人生の使命は喜びだ。空に向かって、太陽に向かって、星に向かって、草に向かって、樹木に向かって、動物に向かって、人間に向かって喜ぶがよい」(小沼文彦訳編『トルストイの言葉〈新装版〉』彌生書房)と。私たちは、「すべてを喜びに変える」境涯になるために信仰で自分を鍛えているのです。
8  強い人は障害さえも生かす
 日蓮大聖人は、「大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし」「賢者はよろこび愚者は退く」と仰せです。悩みがあればあるほど、「境涯を開くチャンスだ」と決めて、いよいよ喜び勇んで前進する。友には安心を与えながら、自分は一切に耐えて、にっとりと微笑み、戦っていく。これが仏法者です。その人が「悦可衆心」の人生となるのです。強く生きぬきましょう。
 「みかげ石の塊は、弱者にとっては歩く邪魔になるが、強者にとっては歩道の踏み石になる」(カーライル)という言葉があります。強い人は、障害さえも生かす。強ければ強いほど、人生は楽しいのです。生命力です。精神力です。その根本は信力・行力です。
 大聖人は、衣裏珠の譬えを通して、貧しい男が無価の宝(価のつけられないほど高価な宝)を発見した喜びを、文底から次のように仰せられている。
 「始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」──はじめて自分自身の生命が本来、仏であると悟ることを大歓喜というのである。南無妙法蓮華経と唱えることこそ、歓喜の中の大歓喜である──。
 本当の幸福は「内なる幸福」です。外面の状況に左右されない「内なる境涯」を確立することです。
 今、人々は刹那の喜びを求め、外面を豊かさで飾ることを幸福と呼んでいるかもしれない。そんな社会であるからこそ、私たちは「内なる幸福」のすばらしさを、「歓喜の中の大歓喜」の姿で、人々に教えていこうではありませんか。
 喜びは、伝播します。「悦可衆心」の人は、周囲の人をも「悦可衆心」の人に変えることができる。
 また人を「悦可衆心」させようと努力する人は、自分の心も「悦可」していく。創価学会には、真の「悦可衆心」があります。生命の歓喜、躍動があり、根本的に楽しいから、人が集まる。「楽しい」ということが、仏法が生き生きと脈動していることの偉大な証明なのです。

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