Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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舎利弗。如来知見。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

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9  「無所畏」とは師子吼の言論戦
 「無所畏」とは、何ものも畏れず、勇敢に法を説くことです。説法にあたっての仏の揺るぎない自信をいいます。これには、「四無所畏(無畏)」がある。
 第一に、最高の悟りを得たと断言すること(正等覚無畏)。妙法への大確信です。
 第二に、煩悩を永遠に克服したと断言すること(漏永尽無畏)。煩悩、悩みに絶対に負けないということです。
 第三に、人々に道を妨げる煩悩、障魔について説くこと(説障法無畏)。三障四魔に打ち勝っていくよう励ましていくことです。
 第四に、成仏への道を人々に説くこと(説出道無畏)。ここに幸福への道があると叫びきっていくことです。
 これらを語る際に、それぞれ畏れを持たないことが「無所畏」です。要するにが″大確信から涌き出る勇気″です。
 仏法を弘通すれば必ず難が起こる。しかし、釈尊も大聖人も、それを承知で、宗教界の権威や政治の権力者等に、堂々と師子吼の言論戦を展開された。それが「無所畏」です。また、大聖人は、門下にも″畏れてはならない″と呼びかけられた。「一日蓮が弟子臆病にては叶う可からざる」とされ、南無妙法蓮華経の大音声を出して、正義を言い切っていきなさいと仰せられている。
 そして、法華経涌出品に説かれている「巧於難問答 其心無所畏(難問答に巧みにして 其の心に畏るる所無く)」(法華経四七二ページ)の精神はそこにある、と仰せです。
 この涌出品の経文には、地涌の菩瞳が、難問答すなわち難しい法論に巧みで、相手を畏れる心などまったく無いと説かれています。
 地涌の菩薩は、問答に巧みであった。そして、どんな強敵であろうと勇敢に立ち向かっていった。
 畏れていては、相手の心に響かない。また智慧もわかないでしょう。
10  「弘教の人を大切に」が仏の心
 日興上人は、「巧於難問答ぎょうおなんもんどうの行者に於ては先師の如く賞翫す可き事」──難問答に巧みな行者に対しては、先師(日蓮大聖人)がそうされたように、ほめ讃え大切にしていきなさい──と述べられています。
 弘教の人を、こよなく大事にせよ。それが日蓮大聖人の御心であり、日興上人の御命令でした。
 ところが日顕宗は、その教えを足蹴にし、踏みにじって、未曾有の「弘教の人」の集いである創価学会を迫害したのです。
 雄弁の人は、広布の宝です。そして真の雄弁とは、たくさんしゃべることではなく、相手を納得させる力です。
 どんな大学者も説得できなかった相手が、婦人部の方の一言で納得してしまう──こういう光景はわが創価学会では珍しくありません。これが智慧の力であり、人格の力、信心の力です。
 皆さまは、これまでも、中傷の嵐の中、高慢な批判の風も恐れることなく、粘り強い正義の対話を繰り広げてこられた。皆さま方こそ、「無所畏」の人、「巧於難問答」の人であることは間違いありません。
11  悟り、智慧とは御本尊への大確信
 方便品の文では、続けて、仏が「禅定」「解脱」「三昧」を具えており、悟りの境地に深く入り、いまだかつてない大法を体得したことが説かれている。このような確固不動の境地にあるからこそ、仏は、縦横自在に民衆の中で法を説き続けることができたのです。
 座して眠想するだけの仏はいない。民衆のために悩み、行動し、人々の悩みを解決してこそ仏なのです。その意味で、皆さま方が、広布途上のさまざまな問題で悩み、そのために祈っている姿こそ尊いのです。日々、友のため、広宣流布のため、人材育成のために悩んでおられる。悩むのが菩薩です。悩んでこそ仏の境涯になれるのです。また、広布に挑戦する姿自体が、すでに仏の振る舞いに通じているのです。
 前に述べたように、この経文に示されている「仏の智慧」「仏の力」は、御本尊の境涯であり、御本尊を受持する私たちも、この境涯になることができる。また、「禅定」「解脱」「三昧」等が、現代で言えば、勤行・唱題に含まれることも、すでに述べたとおりです。
 すなわち、私たちが、広布のために真剣に悩んだ分だけ、御本尊にぶつかった分だけ、こうした諸仏の智慧が、力が全身にみなぎってくる。そうなってこそ、この経文を身で読んだことに通じるのです。
 悟りの境地といっても、かつてない智慧といっても、具体的には「御本尊への大確信」のことにほかなりません。

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