Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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所以者何。仏曾親近。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

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17  仏の智慧は慈悲から生まれる
 「宜しきに随って説きたまう所の意趣は難解なり」とは、仏の「智慧の門」が難解難入である理由を述べている一節です。
 つまり、法華経以前の教えは、九界の衆生のさまざまな機根に合わせて説かれたものであるが、その「意趣」、つまり仏の「真意」は、まだ説かれておらず、だれも分かってい、ないのである、と。
 仏が、果敢な修行の果てに得た「甚深未曾有の法」をただちに説くことは簡単なことではない。仏と衆生のレベルが違いすぎるからです。正法を教えても、衆生が中途半端に理解したり、疑いを起こして、かえって正法を破り、三悪道に堕ちてしまう危険もある。
 釈尊自身、菩提樹の下で成道した直後、ひとたびは法を説くのをためらった。しかし、今、ここで自分が教えを説かなければ、衆生は永遠に迷いの闇の中に閉ざされてしまう。ここに、人類の先覚者・釈尊の葛藤があった。その人知れぬ苦衷を乗り越えて、法を説き出したのです。
 したがって、人々が間違いなく、正しく法を会得できるよう、釈尊は縦横に智慧を発揮し、悟りをいかに多くの人々に伝えるかに心を砕いた。さまざまに工夫した。それが釈尊の慈悲です。智慧は、慈悲から生まれるのです。
 三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)の教えは、まさしく、そのように位置づけられる。仏が、それぞれの機根に合わせて、声聞の道、縁覚の道、菩薩の道というように、個々に応じた教えを説いたものです。それによって、仏の「智慧の門」まで至らせようとした。それが、爾前権教の方便です。
 経文では、そのことを「宜しきに随って説きたまう所」──衆生の機根に応じて適切に説かれた教え──と述べている。
 仏の真意は、あくまで一切衆生を仏にする道、一仏乗を説とうとしたことにある。ところが、声聞や辟支仏たちには、それが分からない。仮の教えに執着して、「一人ももれなく全人類を仏にしたい」という仏の真意を理解できなかった。一切衆生を仏にする真実の法が分からなかった。
 それが「意趣は難解なり」──仏の真意は理解し難い──の意味です。
 当然のことですが、仏がわざわざ説法を難しくしたのではない。結局、受け手の衆生の側に「不信」や「執着」などがあるから、仏の意趣が難解になるのです。
 心を閉ざしてしまえば、正論すら受けつけられなくなる。誤った思想に執着することが、どれほど恐ろしいことか。人生を破壊してしまうことか。
18  「仏の真意を知る人」とは正法流布の人
 じつは、三類の強敵が法華経の行者を迫害するのも、法華経の心が理解できず(「意趣難解」)、方便権教に執着したところにあった。経文には「濁世の悪比丘は仏の方便宜しきに随って説きたまう所の法を知らず悪口して」(法華経四二〇ページ)とあります。
 「濁悪の末法の悪僧」は、爾前権教が「方便宜しきに随って説きたまう所の法」であるとは知らず、それら低い教えに執着してしまった。それゆえに、自分たちが持つ爾前経を打ち破る法華経の行者に敵意を抱き、迫害するのです。仏の真意を歪めた人、理解していない人が、仏の教えのままに実践している人を迫害する。いつの時代も、前者は多勢で、後者は少数です。
 濁悪の社会にあって、迫害を加える側は、法華経の行者の悪口を広め、「悪の世論」を形成しようとする。そして、正義の人を追いやろうとする。こんな顛倒の濁世だからこそ、私どもは正義を叫び続けなければならない。勝って、正義を証明しなければならない。
 大聖人の滅後にあっても、日興上人がただ御一人立ち上がられたゆえに、大聖人の正義が護られたのです。日興上人が沈黙されたならば、「五老僧が正義」との歴史ができてしまったでしょう。ゆえに、日興上人は厳格なまでに、五老僧の邪義を打ち破られたのです。
 五老僧は、大聖人の「意趣」、つまり御本仏の御真意が分からなかった。大聖人の「意趣」とは、三大秘法の御本尊を広宣流布し、末法の全民衆を幸福にするということに尽きる。五老僧は、この三大秘法を顕された大聖人の御心を見失ってしまった。
 日興上人ただ御一人が、大聖人に常随給仕され、ともに難を忍ばれ、師の仰せのままに果敢に弘教を展開された。師と共に心を合わせて戦ったがゆえに、大聖人の「意趣」が分かったのです。「師の心」が正しく伝わったかどうかは、「弟子の行動」を見れば、分かるものです。
 いくら三大秘法を持っていると自称しても、万人の幸福を願う広宣流布への行動がなければ、大聖人の「意趣」を見失った姿であると断ずる以外にない。
19  「疑う心なくば」必ず幸福の頂へ
 大聖人の忍難弘通から七百年。その御精神がまさに減せんとした時に、創価学会が出現した。学会は、大聖人の正義をそのまま受け継いだ仏意仏勅の団体です。
 「大聖人直結」「御本尊根本」「御書根本」を貫くSGIだけが、大聖人の「意趣」を正しく伝えている唯一の和合僧団なのです。私どもは、栄光ある「正義の証明者」として、広宣流布へ語りに語りぬいていきたい。誇り高く、堂々と。声も惜しまず、黄金の雄弁で──。
 また、「意趣は難解なり」の経文を、戸田先生は、私たちの実践に当てはめて、次のようにも説かれています。
 「仏は先を見通しであられるし、こちらはお先は真っ暗で、過ぎ去った後のほうだけ見通しなのでありますから、御本尊のお心はわれわれには悟りがたいというわけであります。
 ただまっしぐらに、御本尊をどんなことがあっても、信じてやっていけばよいのであります。そうすれば、かならず功徳がでます。途中で疑ったらダメであります」(『戸田城聖全集』5)と。
 ここに、信心の極意が語られています。御本尊への「確信」こそが、最高の「智慧」に通じる。これが「以信代慧」です。
 一切衆生を仏にするのが大聖人の「意趣(真意)」です。ゆえに大聖人の仏法を持ちきった人が、幸せにならないはずがありません。しかし、その途上には、自分自身の宿業などからさまざまなことが起きる。「どうして、こんなことが」と思う場合もあるかも知れない。
 そういう現象に、いちいち紛動されてはならない。最後は必ず幸福になるに決まっているからです。一切を、幸福という目的地に至る修行であり、鍛えであると受け止めていけばよいのです。
 そうすれば、あとになってはじめて、一つ一つの現象の深い「意味」が、「意趣」が分かってくるのです。
 大聖人は「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」──私並びに私の弟子は、多くの難があろうとも、疑う心がなければ、必ず仏界に至るのである──と仰せです。
 何があろうと、このことをどこまでも疑わない人が、信仰の勝利者であり、大聖人の「意趣」を悟ったことに通じるのです。

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