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日蓮大聖人・池田大作

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第七章 一生成仏の信心 師弟不二の大道を確かに歩め!

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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7  無限の生命力と使命の達成
 「成仏とはいかなるととか」――戸田先生は、常に「永遠の幸福を獲得するということである」と論じられていました。
 「いつもいつも生まれてきて力強い生命力にあふれ、生まれてきた使命のうえに思うがままに活動して、その所期の目的を達し、誰にもこわすことのできない福運をもってくる」ことであるとも教えられました。平易な表現でありながら、深く成仏の意義をとらえきった真の哲学の言葉です。
 さらに「このような生活が何十度、何百回、何千回、何億万べんと、楽しく繰り返されるとしたら、さらに幸福なことではないか」とも言われていた。この戸田先生の確信に満ちた師子王の音声は、今も私の耳朶から離れません。
 妙法に生きぬいた人は、生まれてくるたびに、生命力にあふれ、その人でなければ果たせない広宣流布の使命を完遂し、誰にも壊すことのできない大福運に包まれていく。そういう生活を何度も何度も、楽しく繰り返していくことができるのです。
 その軌道に、今世において厳然と入っていくことが、一生成仏と言えるのではないでしょうか。
 そして、それを現実のうえで無数に実現してきたのが、わが創価学会の同志の方々です。一人一人の人生に見事に妙法蓮華経の実証が開花し続ける限り、創価の信心は永遠に輝きます。戸田先生は、将来は、創価学会員一人一人の人生が「創価学会仏」として不滅の経典に刻まれると断言されていました。
 もちろん、生老病死の一つ一つの相もまた人生の実相です。誰人の身体も成住壊空の変化を免れない。年をとれば体が、若い時と同じように動かなくなることも当然です。信心している人だけが永遠に青年の肉体のままだと言うのであれば、自然の摂理にも背いてしまう。
 しかし、信仰で鍛えぬかれた生命そのものは、永遠に朽ちることはありません。広宣流布に生きぬいてとられた多宝会・宝寿会・錦宝会(高齢者の集い)の皆さま方も、この一点を確信して、荘厳なる一生成仏の人生の総仕上げを朗らかに誇り高く勝ち飾っていただきたい。”いよいよ! これから!”です。
 御聖訓に照らして、この「戦う心」を今世で築き上げた人は、永遠の生命を自在に遊戯していく大境涯を会得していることは、絶対に間違いありません。
 こうした大宇宙をも包みこむ、三世永遠の自由闊達な境地を、よく戸田先生はユーモアを交えて言われていました
 「死んだって、また生まれてくるのです。僕は、この次に生まれてくるときには、よほどの美人として生まれてこようと思っている」
 そして、世界的美人になって、写真が売れたり、サインを求められたりするだろうが、悪人には、絶対にサインしてあげない――と愉快そうに語られていました。
 亡なられた時、先生は五十八歳。決してご長寿とは言えないお歳であったかもしれません。戦時中の法難による二年の獄中生活で、すでに身体は憔悴しきっておられたのです。晩年は、戦後の学会の再建と会長時代の激務のために、病に伏したこともありました。
 ある幹部が「戸田先生は、なぜ病気をしておられるのですか」と質問すると、先生は、こう答えられた。
 「私がこうして病気していることは、大きな『転重軽受』なのだよ。この病気で、学会が壊滅になるべきところをすませているのだ」
 また、ある人には「大聖人の御もとに還って、お側に一週間いられるか、十日いられるか。
 また、この大宇宙には、地球のような星がいくつもある。大聖人より、そっちに行ってまた広宣流布をしてこい、といわれたら、御命令のままに出かけるのさ」とも言われていました
 まさに、大聖人の御遺命のままに天空を飛朔されゆく広大無辺な大境涯の先生であられた。
 そして戸田先生は、この大境涯を一人でも多くの弟子と分かち合おうとされた。その一端を伝えるために、よく、成仏とは「絶対的幸福」のことであるとご指導してくださった。
 「絶対的幸福とは、毎日毎日の生活が、瞬間瞬間の生活が、うれしくてうれしくてたまらないということです」
 そして、広宣流布に戦いぬいて、亡くなる前の日々に、そういう大境涯を満喫していける。それが、一生成仏――永遠の幸福の軌道に入った証であることを教えられた。
 戸田先生は、雄大な富士を仰ぎ、ながら広宣流布の大指揮を最期まで悠然と執られ続けました。まさに、その崇高なご生涯こそが一生成仏の模範であられたと、私は確信してやみません。
8  師弟ともに唱える獅子吼の題目
 「戦う心」がなければ成仏できない。「戦う心」によって、成仏の因果がわが生命を貫く黄金の柱として打ち立てられるのです。
 「本因の姿勢」「不退転の覚悟」「師子王の心」「負けじ魂」「日々、つよる信心」――さまざまに言い換えることができますが、要するに、南無妙法蓮華経の題目とは、「無限の前進」の源泉の法にほかならないということです。
 どんな苦難も宿命も、師子王の題目の前に立ちはだかることはできません。
 逆境を前進のバネに、宿命をも使命に、悲哀をも創造の源泉に変える力が、南無妙法蓮華経に具わっているからです。日蓮大聖人の御生命が南無妙法蓮華経に躍動しているのです。
 また、広宣流布に戦う同志が唱える題目は、牧口先生、戸田先生が人類救済の大願成就のために唱えた題目と不二です。
 この戦う師子の題目を忘れてしまえば、師の題目と相違してしまう。それでは師弟共に唱うる「獅子吼」の音声にはなりません(「御義口伝」、748㌻)。そうであれば、大聖人の題目でもなければ、釈尊の精神とも無縁の麤法となってしまう。
 この厳粛な師弟の精神を「一生成仏抄」の結びに引かれた神力品の一節は教えていると拝されます。
 また、そう拝読してこそ、日蓮大聖人直系の創価学会における御書根本の精神に適うと言えるでしょう。
 大聖人は、本抄の結びとして「努努不審をなすべからず」「一生成仏の信心」と仰せです。
 どこまでも「信心」が肝要です。
 本抄の冒頭に戻れば、「夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せん」と。無始以来の苦悩の呪縛を断ち切り、永遠の成仏の境涯を確立するために、私たちの今世の一生があります。この一生を悔いなく戦い切ることが、三世永遠を悔いなく勝ちぬく生命となります。
  「我は知る
     ああ究極の
       幸福と
     大人生の
       晴れの勝利を」
 私は、この年頭(二〇〇六年)に全学会員の大満足の人生を願って詠みました。どうか、全世界の同志の皆さまは、「究極の幸福」と「大人生の晴れの勝利」の姿をもって、”わが一生成仏の大道”を勝ち進んでいただきたい。
 永遠にこの一瞬に凝縮する一生成仏の闘争を断じて勝ちまくり、三世にわたる広宣流布の旅路をこれからも一緒の朗らかに歩みぬいていきましょう。

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