Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第六章 己心の妙 心の師とはなるとも心を師とせざれ

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
7  「心の師」を求めぬく信心を
 さて、妙法蓮華経が己心の法である以上、どうしても触れておかなければならない課題があります。それは、「無明の迷心」と「法性真如の妙心」との関係です。
 自身の心といっても、凡夫の弱き心に従ってしまえば、心の可能性は急速にしぼみます。それどころか、心から悪も生じます。ここに一念の微妙な問題がある。
 一生成仏が、衆生自身の心を鍵としている以上、人間がもつ「心」の弱さを克服していかなければならない。それが「信心」でもあるのです。
 凡夫の心は、常に揺れます。その揺れる自身の心を基準にしてはならない。
 そのことを訴えているのが、有名な「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」との金言です。この一節は、六波羅蜜経にあります。”私たちの心はいわば、突然、暴走することがある。だから、凶暴な象を調教するように、自分の心を師としてはいけない。「心の師」を求めていかなければならない”という趣旨が記されています。(「常に心の師と為るとも心を師とせざれば卒暴有るととなし。象を調伏するが如し」(『大乗理趣六波羅蜜多経』巻7、大正8巻898㌻)
 同趣旨のことが、涅槃経にも「願って心の師と作って心を師とせざれ」(大正12巻534㌻)とあります。大聖人は、この「心の師」との経文を幾度となく引用され、門下の信心の指針とされています。言うならば、この「心の師」とは、人生の羅針盤であり、信心の灯台でもあると言えます。
 時に随って移り動いてしまう凡夫の弱き心を「師」としてはならない。どこまでも、自身の心を正しく導く「師」が必要となるのです。「師」とは法であり、仏説です。釈尊自身、自ら悟った法について「法を師として生きぬく」ことを誓い、生涯、その誓願を貫き通したことを誇りとしている。それが、釈尊が弟子への遺言として強調した「法を依り処とせよ」との生き方にほかならない。
 この釈尊の心を忘れたのが、大聖人御在世の諸宗の僧たちです。自分の心を中心にして、経を忘れ、法華経を誹謗し、増上慢と堕してしまった。
 これに対して、大聖人御自身は、どこまでも、法華経の根幹であり、諸仏の根源の法である妙法蓮華経こそが「心の師」であることを教えられた。その修行が唱題です。
 そして、ことあるたびに門下に、「心の師」を求めていく信心の姿勢を訴えられたのです。
 たとえば、池上兄弟が信心ゆえに父親から勘当された際、大聖人は、今こそ、兄弟団結して信心根本に苦境を打開していくよう励まされた。そして「心の師とは・なるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文なり」と指導されたのです。
 どんなに大変な事態でも、信心が揺るがなければ必ずや打開することができる。信心とは、弱い自分自身の心との戦いである。その戦いを勝ち越えていくためには、自分の弱い心に左右されるのではなく、ただ法華経を根幹として生きていくべきであると教えられています。
8  「法」を根本にした「師弟の道」を
 それと同時に、池上兄弟の勝利のドラマから私たちが学ぶべきは、「師弟不二」の信心です。
 兄弟が勘当事件を乗り越え、父親の背後に潜む極楽寺良観の謀略を見破り、最後は父の入信という劇的な凱歌を勝ち取ったのも、すべて大聖人の仰せ通りに戦ったからです。
 「心を師」とするとは、「自分中心」です。最終的には、揺れ動く自分の心に振り回され、わがままなエゴに堕ち、あるいは無明の淵に沈んでしまう。
 これに対して「心の師」となるとは、「法中心」です。そして、この「自分」と「法」を結びつけるのが、仏法の師匠の存在です。
 仏法で説く師匠とは、衆生に、自らの依り処とすべき「法」が自分自身の中にあることを教えてくれる存在である。法を体現した師匠、法と一体となった師匠を求め、その師匠を模範と仰いで弟子が実践していく。そのとき、初めて「心の師」となる生き方が実現するのです。
 言い換えれば、私たちの一生成仏には、衆生の持つ「心の可能性」がどれだけ広いかを教え示す「法の体現者」であり、「法と一体化」した「師」の存在が不可欠となるのです。
 私も、現代において日蓮仏法の広宣流布に生きぬかれた戸田先生という如説修行の師匠がいて、自分自身があります。私の胸中には、いつも「心の師」である戸田先生がいる。今も日々、瞬間瞬間、胸中の師と対話しています。これが「師弟不二」です。
 常に、自分の心に、「心の師」という規範を持ち、「心の師」の説のごとくに戦う人が、「法根本」の人です。日蓮仏法は、どこまでも「師弟不二」の宗教です。法華経もまた師弟不二の経典です。
 一生成仏の大道にあって師弟が不可欠であることを教えられるために、大聖人は本抄の最後で神力品の一節(「我が減度の後に於いて応に斯の経を受持すべし是の人は仏道に於いて決定して疑い有ること無けん」〈法華経576㌻〉)を引かれています。その深意については次章で拝したいと思いますが、己心の法である南無妙法蓮華経を自行化他にわたって唱えていく地涌の実践の中に成仏の道もあるということです。
 いずれにしても、無明や三毒の心に翻弄されることなく、わが一念を「大いなる仏の心」と合致させていく不二の信心のなかに、一生成仏の大道がある。宇宙大とも言うべき心の秘宝を開く鍵は「師弟の信心」です。
 そして、勇んで唱題に励み、広宣流布の行動へ打って出ることこそ、「一生成仏の直道」なのです。

1
7