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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 勇猛精進の唱題 「日々、挑戦」でわが生命を練磨

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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7  生命錬磨の道②――持続
 次に「持続」が大切です。特に、一生成仏を遂げていくためには、「持続」は絶対の要件です。大聖人が「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」と仰せの通りです。
 本抄で「日夜朝暮に」そして「懈らず」と重ねて強調されているのは、それほど「持続」が重要だからであると拝することができます。日々たゆみなく唱題行を持続していくことが、一生成仏のための要件です。
 大聖人は仰せです。
 「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや
 苦しい時にも題目、楽しい時も題目です。苦楽を貫いて持続していくことです。「うちとなへゐさせ給へ」の「ゐ」の字には持続の意味があります。
 「苦楽ともに」が極意です。
 「苦」に直面して退いてはならない。今ある現実の「苦」をそのまま「苦」と「さとる」。それは、諦観でも逃避でもありません。
 現実を妥協なく見つめ、その現実に唱題根本で敢然と立ち向かう。そうした信仰者のあるべき姿が示されています。大聖人の仏法における信仰とは、たゆみなき現実変革への信心だからです。
 もちろん、これは一朝一夕に築ける境涯ではありません。しかし、日々月々年々と怠らず磨き戦いぬいていくならば、「無上宝緊不求自得」のままに、おのずと会得していけることは間違いありません。
 次に、「楽をば楽とひらき」とは、人生のなかで喜びが得られたときにこそ、報思感謝を忘れず、一生成仏の大目標に向かって、さらに題目に励むことであると拝することができます。
 求道心を深めていくという点では、苦難の時よりも、何か良いことがあった時のほうが難しいとも言えます。
 どうしても油断や慢心に陥りやすいからです。”苦境には強いが順調な時に弱い”というのではなくして、「苦楽ともに思い合せて」と仰せの通りの鋼のような信心でありたいと思います。
 それは、「広宣流布」「一生成仏」という偉大なる目標を持って戦う学会の信心のなかでこそ培われていくと言える。
 いずれにしても、苦しい時には挑戦の唱題、楽しい時には感謝の唱題と、「日夜朝暮に又懈らず磨く」唱題行こそが宝剣を鍛えぬくように、自身の生命を強靭にしていきます。
 「持続」とは、言い換えれば「不退転」です。御書を繙けば、大聖人が全編にわたって「不退転」を強調されていることが拝察できます。
 「題目を唱うる人・如来の使なり、始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり
 「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし
 「法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず
 無明との闘争がなければ法性が顕れません。そして、戦い続けなければ、法性と一体の揺るぎない生命を築くことはできない。「すこしもたゆむ心」には魔が入り込むからです。
 また、戦えば三障四魔が出来します。この三障四魔に打ち勝つことで、成仏の境涯を確立することができる。唱題行によって生命を根底から鍛えれば、心はいくらでも深くなり、生命はいくらでも強くなり、境涯はいくらでも広くなります。
8  南無妙法蓮華経は精進行
 大聖人は、一生成仏という大境涯を全門下、いな全人類に教えようとなされた。
 南無妙法蓮華経の唱題行の真骨頂は、仏と同じ生命を現実に涌現させ、これ以上ない深い人生を各人に歩ませることにあります。そのことを明快に示されたのが、次の有名な「御義口伝」の一節です
 「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり
 この御文は、私が若き日に戸田先生から教えていただいて以来、身をもって拝し続けてきた座右の御聖訓の一つです。いかなる時も、常にこの御文を胸に戦ってきました。
 法華経従地涌出品第十五で、無数の地涌の菩薩が大地から涌現する。この地涌の菩薩は裟婆世界の下の虚空の中に住して、常に仏道を求めて精進を重ね、停滞したことのない菩薩たちであると説かれる。この地涌の菩薩の精進の内容を、大聖人の仏法の御立場から明かした御文です。
 日蓮仏法の真髄は、仏道を求め、精進していく姿そのものに無作三身の仏の生命が涌現していくということです。
 「一念に億劫の辛労」――「億劫」という計り知れないほど長い聞にわたる辛労のすべてを一時に集約するように唱題するならば、本来、自分の身に具わっている無作三身の仏の生命が瞬間、瞬間に起こってくるのである、との仰せです。
 南無妙法蓮華経とは精進行です。深く信心を起こし、しかも着実に持続していく唱題行こそが精進行です。無二の心で、たゆみなく貫き通してこそ、一生成仏の修行となる。
 その実践によって、無作三身という本有の仏界の生命が、尽きることのない勇気と忍耐と歓喜と智慧と慈しみの力となって迸り出るのです。
9  ”勇猛精進の青年よ、出でよ!”
 精進とは、勇猛精進です。勇猛なくして精進は生まれません。
 牧口先生も勇猛精進の人生であられた。
 ある時、牧口先生は青年に語られました。
 「勇猛精進したまえ! 仏法は実行だよ。精進だよ。老齢にはなったが、私も実践しています」
 戸田先生も、青年に呼びかけられています。
 「民衆の幸福を願う心ある青年であるならば、まず自らが、この高邁な人間革命の真髄を求めて、いかなる三類の強敵・三障四魔とも戦いぬき、勝ちぬいて、勇猛精進すべきではなかろうか」
 私もまったく同じ心情です。勇猛精進の弟子よ、青年よ、世界に陸続と涌現せよと熱願しつつ、日々、祈りぬいています。勇猛精進こそ創価の師弟の心です。
 ともあれ、題目は「前進」の力です。題目は「勝利」の力です。あらゆる戦いは、まず祈ることから始まります。題目を唱えぬいた人には、誰もかないません。
 私たちは、どこまでも日夜朝暮にたゆまず題目を唱えながら、わが生命を鍛えぬいて、勝利また勝利の人生を築き上げていこうではありませんか。

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