Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 唱題の意義 仏法正統の実践で生命究極の勝利へ

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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8  妙理に名を付ける
 さて、問題は、どうすれば、万人がこの「衆生本有の妙理」を観ずることができるか、その一点にあります。仮に妙理を観ずる道が開かれでも、その道を歩み通すことができるのは、ごく一部の限られた人だけだというのであれば、仏教は民衆に開かれた宗教にはなりえません。
 大聖人以前、この妙理を観ずる方途を確立しようとしたのが、天台大師の観念観法です。しかし、これは末法の民衆に開かれた方途ではありませんでした。
 そこで大聖人が開拓された道の第一歩は、妙理に名前を付けられたということです。
 「衆生本有の妙理」には、もともと名前はありません。しかし、この「衆生本有の妙理」を自身の生命に発見した聖人が、それに最もふさわしい名を付けるのです。このことは「当体義抄」に仰せの通りです。(御書513㌻)
 名前を付けることは創造的行為そのものです。物事の本質を的確にとらえた名前を付けることで、その本質を万人に開放する大きな結果をもたらします。名前が付くことで、万人が価値を共有していくことができるからです。
 本抄に「衆生本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり」と仰せのように、大聖人は、「衆生本有の妙理」という根本法とは「妙法蓮華経」にほかならないことを明確に宣言されています。
 厳密に言えば、「妙法蓮華経」という言葉自体は法華経の経題として存在していました。しかし、この妙法蓮華経こそ、法華経において仏の甚深の智慧として説かれる「諸法実相」の深理の名であることを明かされたのは、大聖人が初めてです。
 また、如来寿量品第十六では釈尊に即して永遠の仏の生命が説かれますが、「寿量品の肝心」こそ妙法蓮華経であると明かされたのも、大聖人が初めてです。
 この永遠の仏は、久遠に成仏して以来、衆生救済のために十界のさまざまな姿を現しながら、仏として生と死の流転を繰り返す存在です。十界の衆生も、また、生も死も、大いなる永遠の生命の現す姿であることを示しているのが寿量品です。その寿量品の肝心が妙法蓮華経であると言われているのですから、妙法蓮華経は寿量品の大いなる生命の名であると拝することができます。
 生と死を繰り返す九界の衆生の生命も、実は、この大いなる生命である妙法蓮華経から現れ、妙法蓮華経に帰っていくという生死のリズムを刻んでいるのであり、妙法蓮華経に包まれ、また妙法蓮華経を内在させているのです。ゆえに、妙法蓮華経が「衆生本有の妙理」の名なのです。
 この妙法蓮華経こそ、末法に唱え弘めるべき題目であると明言したのは、大聖人が最初なのです。
9  妙理を観ずる唱題行の開始――民衆仏法の確立
 大聖人が開拓された大道の次の一歩が、「題目を唱える」という修行の確立です。
 「妙法蓮華経」という普遍的な真理に対して、大聖人は「南無」を付けられ、その真理に対して呼びかける修行を樹立されたのです。
 南無とは「帰命」の意味です。「南無妙法蓮華経」と声を出して唱題することは、自身がその真理の世界に帰していくことを身口意の次元で決意し、誓う宣言にほかなりません。そして、それと同時に日蓮仏法の特徴は、一人一人の人生において、妙法蓮華経の普遍の真理に基づく生き方が実現するということです。
 大聖人の仏法における唱題行の急所は、単に「外なる真理」の名称を唱えることではありません。宇宙と生命を貫く「内なる真理」を呼び覚まし、自身がその真理に基づき生きていくことを現実のものとする実践にほかならないのです。いわば、「衆生本有の妙理」をわが生命の内側から発動させ、発揮させる自分自身を確立していく作業そのものなのです。
 仏教の歴史に鑑みれば、法華経が「衆生本有の妙理」に目覚めることを教えていても、現実のその後の仏教の展開は、この「妙理」が内にあることを忘れてしまった。そのなかで、一念三千・一心法界の義に基づいて観法を立て、胸中の仏界を呼び覚まそうとした天台大師の観心行(観念観法)は、法華経の正道を復活させた正統な実践と言えます。
 さらに、日蓮大聖人は万人に実現可能なものとして、「衆生本有の妙理」に名を付けられ、その名を唱える唱題行を打ち立てられた。そして、妙理への帰命と、妙理に基づく生命の確立とを可能にされた。
 このように、大聖人によって、宇宙と生命を貫く真理が自身の胸中にあると目覚め、それを涌現する道が、万人に開かれたのです。しかも、その真理は、諸仏の悟りの智慧であり、法華経という無上の経典に余すところなく示された真理である。
 そして、その真理に生きることによって、無上の価値を人生の上に実現することができる。その世界に、誰でも、いつでも、いかなる身でも、どこでも参加できるように開かれたのが、日蓮大聖人の仏法です。この日蓮仏法の唱題行によって、民衆仏法が確立されたと言っても過言ではありません。
 まさに、日蓮大聖人の仏法の唱題行は、自身の生命変革をもたらす最高の仏道修行です。
 また、題目を唱えることは、自身の仏の生命を呼び覚ますことです(「法華初心成仏抄」557㌻)。唱題こそが仏界涌現の直道です。
 涌現された仏の智慧と慈悲の生命は、自身の生命境涯を豊かにし、自他ともの幸福を実現していく。さらに、自行化他の唱題が広がっていけば、仏の慈悲の生命に彩られた民衆の連帯が可能になり、人類の宿命をも転換していけるのです。
10  ”我が身即日蓮大聖人”
 私たちが唱える南無妙法蓮華経の本義について、さらに忘れてならないことは、南無妙法蓮華経とは、日蓮大聖人の御本仏の御生命の名前でもあるということです。
 南無妙法蓮華経といっても、日蓮大聖人の御本仏としての御生命を離れて存在するものではありません。宇宙と生命を貫く根源の妙法蓮華経の真理は、日蓮大聖人が実践され、日蓮大聖人の御振る舞いのなかに現れることによって、初めて確立されたと言えます。それまで人々が観じるkおとのできなかった「法」が、現実に示されていったからです。
 日蓮大聖人の御本仏の生命とは、悪と戦い、無明を破る生命にほかなりません。この地上の一切の不幸と悲惨、宿命と四苦から人間を解放する闘争は、その悪をもたらす根源の無明と戦うことに尽きます。
 日蓮大聖人が広宣流布のために唱えられた自行化他の南無妙法蓮華経の題目には、「無明の雲晴れて」と仰せのごとく、無明を払う力があります。
 南無妙法蓮華経と唱えれば、胸中に仏界の太陽が昇ります。厚い雲のように太陽を覆い隠していた無明が晴れていくのです。胸中に仏界の太陽が昇れば、無明の闇は去っていきます。
 日蓮仏法は、大聖人御一人が太陽であるという宗教ではありません。大聖人御自身が胸中に太陽を昇らせたように、私たちの胸中に太陽を昇らせるための宗教です。もったいないことですが、わが身に日蓮大聖人と同じ仏の太陽の生命が昇るのです。
 このことは、日寛上人が「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊蓮祖聖人なり」(「観心本尊抄文段」)と仰せの通りです。まさに、唱題行は、民衆一人一人が太陽になることを教えた最高の成仏への道程なのです。
 プーシキンは歌いました。
 「偽りの知恵は、
 不滅の知性という太陽の
 前に揺らぎ、くすぶる。
 太陽よ、万歳!
 闇よ、消えよ!」(А.С.Пушкин:Собрание сочинений,том2,Художественная*литература)
 日蓮仏法は、生命究極の勝利への道を全人類に開いた太陽の仏法です。我らこそは、「太陽万歳」と高らかに謳いながら、人々の胸中の闇を晴らす戦いに、勇躍、邁進していこうではありませんか。

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