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日蓮大聖人・池田大作

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第二十章 生死不二の大功徳 戦う人生に大いなる歓喜あり

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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7  愚人に誉められたるは第一の恥
 「開目抄」の結びでは、そうした大境涯に照らして、諸宗の輩からの誹謗など何の意味もないことを仰せられています。
 法華経を実践すれば必ず「悪口罵詈」されます。しかし、法華経ゆえの悪口罵詈こそ無上の栄誉です。
 「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」と仰せのように、世間の毀誉褒貶に左右される愚人に賞讃されることは最大の恥です。その大確信で、初代牧口先生、二代戸田先生も歩んできました。三代の私も、同じ道を貫いてきました。
 仏法者にとっていちばん大事なことは、世法の評判などではありません。常に自分が、その時代にあって、最も時に適った正法流布の闘争を繰り広げられるかどうかです。
 大聖人は、娑婆世界で法を説き始めた釈尊、西域から中国に入って経典を訳した鳩摩羅什、中国へ法を求めた伝教大師、命を懸けて仏法を守った提婆菩薩や師子尊者、臂を焼いて灯明を供養した薬玉菩薩、手の皮をはいで教えを書きとどめた聖徳太子、経を供養するためにわが身の肉を売った釈迦菩薩、骨を筆として教えを残した楽法梵志の名を挙げられています。
 これらは実践の形は違いますが、すべて正法を惜しむための「時に適った行動」です。こうした行動を起こした根底には、正法を護りぬいていとうという心の戦いがあるのです。そして、心の戦いに勝って、時に適った行動を成し遂げたとき、これらの仏法者たちの生命には大いなる歓喜が広がっていたのです。
 ゆえに大聖人は、魔性との戦いのうえで生じた大難は「今生の小苦」にすぎず、末法の時に適った実践を成し遂げた永遠の「大楽」こそが、法華経の行者としての戦いから得られた大功徳であると仰せなのです。
8  「開目」の大波を幾重にも
 この広大なる大境涯を、大聖人は、今、現実に鎌倉で難に遭っている門下たちに教えようとされたと拝されます。御自身の悠然たる境涯を教えることで、「心配することなど、何一つない」「私たちは永遠の勝利者になれるのだ」「門下よ、この日蓮に続け」と、生命の根底から励まされているのです。そこに、全門下の無明を晴らし、迷いの目を開く「開目」の真義があります。
 戦う精神は、共鳴して「一人立つ」心を生み、次から次へと伝播していきます一人また一人と「戦う勇者」が広がれば、日本の人々が「開目」していきます。そして今、日蓮仏法は、世界で「開目」の大波を起こしています。この「戦う心」を伝える以上の慈悲はありません。
 「しばらくの苦こそ候とも・ついには・たのしかるべし
 闘争即大歓喜の「戦う心」を今、門下に教えずして、いつ教えるのか。現実に大弾圧を受けている今こそ、仏になる「時」であると叫ばれて、大聖人は本抄を結ぼれていると拝察できます。
 私もその御心を深く拝し、広宣流布の大いなる峰を登攀しつつある全会員、全世界のメンバーに呼びかけたい。
 世界広宣流布の草創期ともいうべき今、深き縁によって、世界中に戦う地涌の勇者の陣列がそろいました。「戦う心」に目覚めたこの陣列こそが「開目抄」の真髄を表現しているとの大確信で、一人一人が三世不滅の大功徳をわが胸中に確立しながら、それぞれの使命の舞台で、自らが太陽となって輝いていっていただきたい。
 まさに「戦う」時は、「今」です。

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