Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十六章 「我並びに我が弟子」 「まことの時」に戦う人が仏に

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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9  すなわち、貧女がなにゆえに不求自得で梵天に生まれることができたのか。その理由として大聖人は禅定に通ずる「念を一境にする」ことと、慈悲に通ずる「専子を思う」心の二つを挙げられている。
 「念を一境にする」とは、一つのことに心を集中することです。つまり「一念を定める」ことです。
 そにお究極は、「一念に億劫の辛労を尽くす」実践です。その実践があるところに、無作三身の仏の大生命が厳然と現れます。(御書790㌻)
 その後、大聖人は、諸経・諸宗で説く唯心法界、八不中道、唯識、五輪観などの成仏論は「玉」ではなく「黄石」にすぎないとされ、これらでは仏になることはできないと言われています。そして、法華経の「一念三千の玉」こそが「仏になる道」であると仰せられています。
 この「一念三千の玉」の一つの解釈として、一人の人間の一念において実現しうる”九界の因と仏界の果が同時に具わる因果倶時の状態を指して、「玉」と表現されていると拝することができます。十界・三千のすべてが一まとまりとなって具わり、しかも、宝石のように輝いている心を「玉」に譬えられたのです。これこそが、妙法蓮華経への「強き信」です。「信」の一念が仏界を含んだ宝玉と現れるのです。
 諸経・諸宗の成仏論は、ある場合は単なる世界観にすぎないもので、安易な自己肯定で終わってしまう。また、ある場合は、無明を滅することを説くが、煩悩を断滅する小乗教の灰身減智に似たものに陥ってしまう。どれも「一念三千の玉」とは似て非なるものです。
 大聖人は再び涅槃経を取り上げられ、「不求解脱・解脱自至」の一節をもって貧女の警えを結ぼれています。解脱を求めなくても、解脱に自ずから至るのである、という意味です。
10  「まことの時」に無明との戦いを忘れるな
 「疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」と仰せのように、「信」の一念のみが、疑いや嘆きなどの無明の生命を打ち破って、妙法蓮華経の力用を生命に現す力を持っています。
 しかし、「無明」の力もまことに執拗であり、根深い。本当に無明と戦っていかなければならない時に、私たちの心に忍び寄り、生命を侵していくのが無明です。その愚かさを「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」と戒められています
 強盛な「信心」を起こすべき時に、反対に、不信を抱き、疑いを起こして退転してしまうならば、あまりにも愚かなことだ。”今が「成仏への時」ではないか! この大難を突破すれば、永遠の幸福を成就することができる!”との大聖人の魂の叫びが伝わってきます。
 何があっても疑わない。何が起ころうとも嘆かない。その強靭な魂を持った人は、何も恐れるものはない。
 創価学会の歴史に、おいても、戦前に牧口先生が投獄された時、戦後の再建期に戸田先生の事業が大変だった時、そして、宗門が三類の強敵としての牙をむき出しにしてきた時など、これまで大難に直面した時は幾たびとなくあった。この時に、何をしたのか、どうしたのか。そこに弟子として、仏法者としての本質があらわになっていくのです。
 「まことの時」に戦う信心にこそ「仏界」が輝くことを、断じて忘れてはならない。これが本抄の一つの結論であると拝することができます。

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