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日蓮大聖人・池田大作

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第十三章 なぜ大難に遭うのか 根源悪「謗法」と戦う法華経の行者

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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10  法華弘通に生きぬく誓願と実践
 以上のように、本抄では、三つの観点から、法華経の行者が難に遭い、しかも迫害者に現罰がない理由を説明されています。
 過去世の法華誹謗の罪業、一闡提人、そして一国謗法に伴う善神捨国――この三点に共通するのは「法華経誹謗」即ち「謗法」の問題です。
 法華経の行者をめぐって起こる諸悪は、すべて「謗法」という根源悪に深く関係しているのです。
 なぜならば、法華経の行者は「正法」を行ずる人だからです。法華経の行者が「正法」を行じて「謗法」を責めるがゆえに、一闡提人の「元品の無明」を激発し、一闡提人たちは三類の強敵となって現れ、大迫害が起こるのです。
 法華経の行者の戦いは、謗法の悪を滅していくための「宗教改革」の戦いです。だからこそ、必然的に競い起こる迫害によって苦難を受けざるをえない。
 しかし、この苦難は、過去世の法華誹謗の罪業をたたき出す生命鍛錬のためのものであり、悪世に生きる人間の生命に仏界を確立する戦いの意味があるのです。この戦いのゆえに「難来るを以て安楽」との大境地があるのです。
 他方、一闡提人は、法華経の行者を迫害することによって、元品の無明をますます強く起こし、法華経への不信・謗法に染まりきって堕地獄への冥罰を受けます。また、一闡提人の影響で国土全体に不信・謗法が広がれば、国土を守る「諸天善神」の働きが失われてしまう。
 こうしたなかで、法華経の行者が難を乗り越えて正法弘通の戦いを貫くとき、一人一人の生命に仏界が涌現していきます。
 この法華経の行者の妙法弘通の戦いは、個人の「宿命転換・一生成仏」のための戦いであるだけでなく、諸天善神の働きを蘇生させて国土の安穏をはかる「立正安国」の戦いとなって現れるのです。
11  「戦う人間の魂」を創る日蓮仏法
 「法華経の行者であるのなら諸天善神の守護がないのはなにゆえか」、また「迫害者に現罰がないのはなにゆえか」という人々の疑いは、諸天善神の加護を、ただ待ち焦がれ、頼みにするような信仰が前提となった疑問です。
 これに対して大聖人は、一応、道理をもって答えられつつも、法味を失って去った諸天善神をも蘇生させていく「宿命転換」「立正安国」の妙法を宣言されます。
 その御文が「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」で始まる「大誓願」の一節なのです。
 ここに示される末法の主師親としての日蓮大聖人の御境地に照らせば、大聖人の仏法は、諸天の加護がないことを嘆くような宗教ではない。現実に立正安国の実践をすることによって、国土全体に諸天善神の力強い働きを再び起こし、理想郷の実現を目指す仏法であると拝することができます。
 私の胸中には大聖人の大音声が響いてきます。
 今、戦わずしていつ戦うのか。わが門下よ、勇気をもって立ち上がれ!
 師子王の心を取り出して戦えば、いかなる罪障も消滅し、宿命転換することができる!
 我らを迫害する一闡提をも救い、人類の無明を断ち切っていくのだ!
 そして、立正安国を実現し、平和の楽土を築いていくのだ!
 「戦う人間の魂」を創るのが、大聖人の仏法であり、「開目抄」の真髄ともいえます。
 したがって、本質的な意味で、諸天の加護の有無、法華経の行者に対する大難への疑難を乗り越えていくには、「大願」「誓願」に立ち、不惜身命・死身弘法で自ら法華弘通に生きぬく以外にはない。「開目抄」は、「誓願」を持ち、「法」に生きぬく真の宗教のあり方、真の人間の生き方に万人が目覚めてゆく「開目」の本義を示されているのです。

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