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日蓮大聖人・池田大作

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第十二章 僣聖増上慢 三類と戦う「真実の師匠」を求めよ!

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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9  一切の悪人を摂する極楽寺良観
 それでは、大聖人御在世当時、僣聖増上慢が、いかに狡猾に社会の中で尊崇の対象となり通していったか。当時の宗教事情に簡単に触れておきましょう。
 「開目抄」の仰せに、勧持品の二十行の偈について「当世の諸宗・並に国中の禅律・念仏者が醜面を浮べたるに一分もくもりなし」とあります。
 当世の諸宗とは、南都六宗(奈良を中心に興隆した三論・法相・成実・倶舎・律・華厳の六宗)に天台・真言二宗を加えた八宗であり、当時における既成仏教を指します。
 これらの諸宗は、朝廷や貴族に保護され、膨大な領地の寄贈を受けて、荘園領主としても社会に大きな影響力をもっていました。各宗の諸寺の支配層は民衆救済を忘れ、腐敗し堕落していきました。延暦寺や園城寺の僧兵の姿などに、人々は仏法の荒廃を感じ、天災や戦乱あいつぐなかで、末法の到来をより強く意識しはじめるようになりました。
 鎌倉時代に入り、新興の勢力として隆盛してきたのが「禅・律・念仏」です。とりわけ、従来の腐敗した宗教界に倦んだ人たちにとってみれば、生活規律と修行の厳格化を尊重する「戒律」は新鮮に感じとられました。「律」というと、六宗の一宗派としての律宗が想定されますが、この時代はそうではなく、宗派を超えて戒律復興運動が起こっていくのです。
 それを推進したのが、京都の禅僧・聖一(円爾弁円)であり、また、奈良西大寺の叡尊とその弟子の良観です。
 また、そうした復興の流行に乗って、鎌倉の念仏者たちからも、戒律を重視する動きが出てきます。
 それが北条氏一族の帰依を背景に活動していた道阿道教、念阿良忠らです。
 そこで良観が、師匠の叡尊を鎌倉に迎え、幕府要人ならびに念仏ら各宗の僧たちに授戒させます。それによって、良観は、幕府要人や念仏者らを傘下に置くことに成功し、鎌倉において自らの権威の支配体制を確立していったのです。その意味で、まさに勧持品の三類の強敵を釈した東春の言葉の通り、「出家の処に一切の悪人を摂す」という状態になっていきました。
 良観は、外見上はどこまでも戒律復興の立役者として振る舞っていましたが、その内面においては、誰よりも俗事のことに執着し、慈善事業・土木事業を進め、「布絹・財宝」をたくわえていたのです。
 人々は、そうした良観の本質を知らずに、「極楽寺の生仏」と崇め、救済を求めて布施を重ねます。
 まさしく良観の姿は、先に見た涅槃経に「実には沙門に非ずして沙門の像を現じ」とある通りです。どんなに袈裟衣をまとい僧形の姿を現じていても、その仮面を剥げばとうてい、沙門などとは言えない。
 しかし、それでも、人々は容易に僧衣に幻惑されてしまう。また、巧妙にそう見せていくのです。それが僣聖増上慢の特徴として、妙楽大師が言う「転識り難き」ということです。その正体を見破ることができたのは、ただ大聖人のみであられた。ゆえに大聖人御一人で、厳然とその欺瞞に挑んでいかれたのです。
 大聖人は、文永五年(一二六八年)の「十一通御書」の中の「極楽寺良観への御状」でも、勧持品の経文を引いて、良観こそ「僣聖増上慢にして今生は国賊」であると痛烈に破折されています。
 そして、その正体を幕府の要人たちに明らかにしようとされ、速やかに公場対決しようと呼びかけられます。
 しかし、対話に応じることもなく卑劣に逃げ回った良観は、文永八年(一二七一年)に祈雨に失敗し、大聖人との勝負に敗れるや、いよいよ僣聖増上慢の魔性の正体を露にします。それが「公処に向い法を毀り人を謗ず」ということです。公処とは、権力者や社会的有力者です。讒奏によって大聖人を陥れようとしたのです。
 具体的には、念阿の弟子・行敏という僧が、大聖人を仏教界と幕府の秩序を破壊する者として訴訟してきます。その訴状に対する反論書の冒頭に大聖人は、良観・念阿・道阿の三人の名前を挙げ、黒幕の正体を明確に喝破されています(御書180㌻)。この訴訟に失敗した良観は、いよいよ幕府の要人、またその女房たちに讒言を強め、それがために、竜の口の法難・佐渡流罪と弾圧が引き起こされていきます。
 まさに良観は、嫉妬と瞋恚の念から大聖人を迫害しようと画策し謀議を練り、権力者らに讒言して法華経の行者への大弾圧を図った。結果として、大聖人の正義の言論にあぶりだされるようにして、良観は経文に説かれる僣聖増上慢と寸分も違わない所行をとっていくのです。
10  勧持品二十行の偈の身読
 「仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり、金言のやぶるべきかのゆへに法華経の行者なし・いかがせん・いかがせん
 大聖人当時の日本に、経文通りの三類の強敵が出現していることが確認できた。では、はたして、それと戦う法華経の行者は誰なのだろうか、との仰せです。当然、三類の強敵と戦いぬいた法華経の行者は大聖人以外にはおられません。
 そのことを論証されるために、大聖人は、次の勧持品の四つの経文を提示され、これらが大聖人の実践にまったく一致していることを明かされています。
 「衆俗に悪口罵詈せらるる
 「刀杖を加へらるる
 「法華経のゆへに公家・武家に奏する
 「数数見擯出と度度ながさるる
 この四つの迫害の様相は、一つ一つに深い意味があります。
 たとえば、最初に無智の人から「悪口罵詈」されるとありますが、大聖人は、日本中の衆俗から、しかも二十年以上にわたって悪口され続けたのです。大聖人が受けられた難は、どれ一つとっても尋常な規模ではありません。
 「るものは目をひき・く人はあだ
 「犯僧の名四海に満ち」「悪名一天にはびこれり
 「日蓮程・人に悪まれたる者はなし
 万人の意識を変革することの困難さが、この俗衆増上慢からの迫害の様相に示されています。しかし大聖人は、そうした非難中傷の嵐を覚悟のうえで、民衆救済に立ち上がられたのです。なんという崇高な魂であられることでしょうか。この一事を見ても、誰人が真実の法華経の行者かが明確に浮かびあがります。
 第二の「刀杖を加へらるる」については、「上野殿御返事(刀杖難事)」に詳しく示されています。
 そこでは、「二十行の偈は日蓮一人よめり」とされて、「刀杖の二字」、すなわち「刀の難」と「杖の難」の両方にあわれたのは、日蓮大聖人以外に存在しないことを記されています。
 刀の難は、小松原の法難、竜の口の法難です。杖の難として大聖人が特筆されているのは、竜の口の法難の時、松葉ヶ谷の草庵を平左衛門尉頼綱らが襲撃した際、少輔房が大聖人の懐中にあった法華経第五の巻を奪い取り、その第五の巻で大聖人の顔を打ったということです。
 法華経の第五の巻の中に勧持品があります。法華経の行者が杖の難に遭うと記されているのも第五の巻、打つ杖も第五の巻、本当に不思議な未来記である、と大聖人は仰せです。一つ一つが大聖人の身読を証明するように事が運んでいるとしか、拝しようがありません。
 第三に僣聖増上慢からの迫害とは、具体的には権力者への讒奏です。竜の口の法難・佐渡流罪が、讒言によって仕組まれたものであったことは先に述べた通りです。
 言い換えれば、正義の人を陥れようと悪人が卑劣な画策をすれば、それは讒言しか方法がないということです。僣聖増上慢は、宗教的な確たる裏付けなど、もっていません。ゆえに真実の法華経の実践者に対して、卑劣な手段をとるしか、なす術がないのです。
 良観について言えば、戒律を固く持ち不妄語を守らなければならない立場なのに、嘘で人を陥れようとする。その一点だけでも、良観が「両舌」、つまり二枚舌の聖職者失格であることは明らかです。
 最後は「流罪」です。権力からの迫害です。経文には、「擯出」――処を追い出すことであると明確に示されています。
 大聖人は、とりわけ勧持品の一節が「数数見擯出」とあることから、「数数」、すなわち数度にわたる流罪ということを重要視されています。
 「開目抄」ではすでに、この主題を論じられています。
 そこでは、「日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はずいわんや余人をや」と仰せです。
 「数数の二字いかんがせん」――一度ならず二度の流罪(伊豆流罪と佐渡流罪)。大聖人が身延に入られてから、三度目の流罪の噂さえもありました。(「檀越某御返事」1295㌻)
 それほど、魔性は執拗であるということです。その執拗な魔性と戦いぬき、断固として勝ち切ってこそ、法華経の行者と言えるのです。
 大事なことは、執拗な魔性をも圧倒する執念で、「戦い続ける心」を貫き通すことです。
 「仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず」です。
 法華経の行者の実践を契機として、それを妨げようと元品の無明が発動した働きが、三類の強敵にほかなりません。「身」が行動している限り、「影」はつきまといます。
 悪が盛んになり善が敗れれば、法性の働きは消滅してしまう。その反対に、善が盛んになり悪を打ち破れば、無明の働きは消滅します。
 常に、瞬間瞬間、生命の中で善と悪の闘争があるのです。「蓮華の花菓・同時なるがごとし」です。したがって、善を強くするためには、悪と戦い続けるしかありません。
 仏法といっても、「法」は目に見えません。善なる法は、法華経の行者の戦う実践の振る舞いのなかに顕現するのです。
 しかしながら、三類の強敵と戦い勝利する法華経の行者に出会うことは稀です。真の仏法の指導者には会いがたいのです。
 ゆえに「求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし」と仰せです。
 「求めて師とすべし」です。
 師弟は、どこまでも弟子が師を求めぬく実践のなかにしかありません。
 自身が求めぬいた時に、戦う師匠の偉大な姿が明瞭に浮かび上がってきます。その意味で、本抄の「関目」とは、”元品の無明・僣聖増上慢と戦う真の法華経の行者の姿に目覚めよ”という意味であるとともに、「開目」の真意は、”師を求め、師とともに魔性と戦いぬく自分自身に目覚めよ”と、弟子の闘争を呼びかけられていることにあると拝することができるのです。

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