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日蓮大聖人・池田大作

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第十一章 三類の強敵 元品の無明から現れる迫害の構造

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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9  「当世をうつし給う明鏡」
 次に大聖人は、三類の強敵を説く勧持品の「二十行の偈」の大要を引用されます。(御書224㌻)
 「二十行の偈」の冒頭は、菩薩たちが力強い決意を釈尊に誓うところから始まります。
 ”釈尊よ、何も心配なさらないでください。どんなに恐怖に満ちた悪世の中でも、私たちは厳然と法を説いていきます”。そして、迫害者の具体的な様相や、迫害の内容が次々と説かれていきます。後に妙楽大師が、この内容を三つに分類して「三類の強敵」と表現しました。
 すなわち、第一に「俗衆増上慢」です。仏法に「無智」の在家の人々で、悪口罵詈、刀杖など、言葉や暴力の迫害を加えます。
 第二の「道門増上慢」は、悪世中の比丘です。「邪智」にして心の諂い曲がった比丘たちは、まだ、悟りを得ていないのに得たと思い込み、自義に執着する慢心が充満しています。
 第三が「僣聖増上慢」です「僣聖」とは、”聖者を装う”という意味です。
 この僣聖増上慢の特徴として、次の諸点が挙げられています。
 ① 人里離れた場所に住み、衣を着て、宗教的権威を装う。
 ② 自分は真の仏道を行じていると言って、人々をバカにする。経文の言葉で言えば「人間を軽賤する」。
 ③ 利欲に執着し、それを貪るために在家に法を説く。
 ④ 世間の人々から六神通を持った阿羅漢のように崇められる。
 ⑤ 法華経の行者に「悪心」を懐いて、種々の迫害を起こす。
 ⑥ 自分の宗教的権威を用いて法華経の行者を貶める。
 ⑦ 権力者や社会的有力者などに讒言する。
 ⑧ ”法華経の行者は邪見の人であり、外道の教えを説く”と非難する。
 大聖人は、これらの三類の強敵を全部、現実に呼び起こし、すべてを乗り越えられました。その勝利宣言が、先ほど拝した「竜口までもかちぬ」との御断言です。
 では、大聖人御在世の時代に出現した三類の強敵とは、具体的に誰か。それについて「開目抄」では詳細に論じられていきますが、今は結論だけを挙げておきます。
 まず俗衆増上慢については、”道門増上慢と僣聖増上慢の悪僧たちを支える「大檀那」たち”であると言われています(御書226㌻)。これは、鎌倉の大寺院の高僧に供養する幕府の要人たちを指します。
 次に、道門増上慢については「法然ほうねん等の無戒・邪見の者」であると言われている。これは、法然の系統にある多くの念仏宗の僧たちを指します。
 そして、僣聖増上慢については、ある面から見れば「華洛には聖一等・鎌倉には良観等」であり、別の面から言えば「良観・念阿」であると名指しで指摘されています。これを通して、結局は、「良観」の名が浮き彫りにされ、僣聖増上慢にあたる”一人”を明確にされていると拝察できます。
 まさに、僣聖増上慢の良観を中心として、平左衛門尉をはじめとする権力者たちと、念阿らをはじめとする念仏者たちが結託して、大聖人を亡き者にし、大聖人の教団を壊滅させるために企てた大弾圧が、竜の口の法難と佐渡流罪だったのです。
 「開目抄」では、三類の強敵が具体的に出現したことをもって、大聖人御自身が末法の法華経の行者であることは疑いがない、と考察を結ぼれていきます。
 まさに、勧持品の明鏡こそ、悪世末法の迫害者を映し出すとともに、末法の法華経の行者が誰人であるかを指し示していると言えます。それゆえに「当世をうつし給う明鏡」であり、「仏の未来記」であると仰せなのです。
10  「無智」「邪智」「悪心」から起こる迫害
 さて、あらためて考えてみれば、不思議な明鏡であり未来記ではないでしょうか。法華経においては、悪世では俗衆、道門、僣聖増上慢という形で迫害が起こるという具体的な姿まで予見しえた。しかも、大聖人におかれては、事実として、経文に完壁に符合する迫害を受けられた。
 経文と大聖人の実践の一致の意義については次章で述べますが、どうしてこのような一致が起こりうるのでしょうか。
 それは、一つには、法華経において、生命の無明が引き起こす第六天の魔王の働きが克明に洞察されているからです。二つには、大聖人が、法華経に説かれた通りに、末法の悪世に万人の成仏の法を不惜身命の覚悟で弘められたからであると拝察できます。
 末法は、本抄に仰せのように、まさに”世が衰え、人の智は浅く”(御書190㌻)、”聖人・賢人が隠れ、迷者が多く”(御書199㌻)なる時代です。末法の危機の本質は、人々が権威主義化した宗教や思想に囚われ、従属してしまうために、法華経のような”深き”宗教・思想を退けるようになり、生命のゆがみが増大していくことにあります。
 人間同士がいがみあい、相互に不信を募らせる末法の人々にとって、一切衆生の平等と尊敬を説く万人の成仏の教えである法華経は、いっそう受け入れ難いものとなるのです。自分たちが理解し難いものとして、万人の成仏の法を疎んじるのです。
 そしてさらに、勇んで”深き法”を弘めて真実の民衆救済のために努力する法華経の行者に対しては、憎しみすら抱くようになるのです。
 それは、暗闇に慣れた者が太陽の光を直視できないようなものであり、また、夜盗が光を憎むようなものである。それゆえ、怨嫉の者は、万人に無限の可能性を説く法華経、および、その法華経を弘通する者を軽賎し憎嫉するのです。ここに”謗法の生命”の恐ろしさがあります。
 勧持品の経文に、俗衆増上慢は「無智」ゆえに、道門増上慢は「邪智」ゆえに、そして僣聖増上慢は「悪心」ゆえに迫害を起こすとあります。これは、無明の発動に「無智」「邪智」「悪心」の三つの段階があることを示していると見ることも可能です。
 すなわち、仏法に「無智」の者は、「邪智」「悪心」の者たちの扇動に乗りやすい。ゆえに、往々にして在家の者たちが、法華経の行者に対して直接に悪口を言ったり、暴力を振るうのです。
 次に、無明を「邪智」として現す敵対者です。ひとたびは出家して仏道を求めますが、自身の理解しえた教えを絶対化し、それのみが正しいという邪智を起こすのです。
 特に、万人が成仏できるという法華経は、自分が信ずる仏の絶対性を損なうように見えて容認できない。そのために、さまざまな形で法華経の意義を低めていこうとします。そうした出家者たちが、万人の成仏の法を正しく弘める法華経の行者に対して、強い憎しみを抱くようになるのです。
 最後は、無明を「悪心」として発動させる敵対者です。この悪心は「権力の魔性」に近い。それは、自分の欲望を満たすために宗教的権威を利用しようとする「大慢心」であると言ってもよい。
 経文に、僣聖増上慢は自分の権威を誇って「人間を軽賎する」とある。この心こそ、万人を尊敬する法華経と対極の生命です。それゆえに、法華経の行者に対する憎しみは強く、ありもしない過失を捏造し、中傷する。
 悪心の究極は、権力をも自在に動かし、法華経の行者への大弾圧をはかることに現れます
 無明が深いゆえに、悪心の者は手段を選ばない魔性の権化と化す。ゆえに、僣聖増上慢は迫害の元凶になるのです。
 万人の成仏の法を正しく弘める法華経の行者が、仏法の精神を根本的にゆがめる魔性の勢力に対して、退くことなく戦う局面を深く洞察すれば、そこには、おのずと、正法に対する無明が俗衆、道門、そして僣聖増上慢の出現という形で発動してくることを、ありありと予記できるのです。

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