Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第九章 六難九易 浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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9  「当世・日本国に第一に富める者」
 反対に言えば、”六難九易を知ることで、教の浅深を知り、理の浅深を弁えること”ができる。それが日蓮大聖人のお立場です。
 したがって、大聖人は、御自身が諸経の勝劣を知ることは、華厳の澄観、三論の嘉祥、法相の慈恩、真言の弘法よりはるかに勝れていると仰せです。
 六難九易を弁え、教の浅深が分かるということは、「六難」で示された法華経の受持・弘通に生きることです。実践なき教判など、観念の遊戯です。そして、大聖人は、法華経の心のままに不惜身命で戦うがゆえに名は後代にとどめるであろうと断言され、その大境涯から「当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」と仰せです。
 最勝の経である法華経を身で読む以上の精神的”富”はありません。
 日蓮大聖人の仏法を実践する創価学会員もまた、この大境涯に連なっていくのです。
 ここで、あらためて特筆すべきことは、日蓮大聖人が佐渡流罪に処せられている境遇にあって、このように”日本国で一番の富者”であると仰せられていることです。
 「流人なれども身心共にうれしく候なり
 「流人なれども喜悦はかりなし
 まさに、いかなる権力も、いかなる大難も、日蓮大聖人の大生命を抑えつけることなど絶対にできない。また、どんな地獄のような境遇であっても、仏の生命から見れば何も束縛するものとはならない、ということです。
 それを実現する要諦が「命は法華経にたてまつり名をば後代に留べし」とあるように、不惜身命の実践です。法華経に帰依することで胸中の妙法蓮華経が開かれ、自身の生命に開花するのです。この六難九易を身で読む生き方を、大聖人は「大海の主」「須弥山の王」に譬えられています。
 つまり、「大海の主」に諸の河神が従うように、「須弥山の王」に諸の山神が従うように、六難九易を身で読んだ者は仏法の王者である。一切経の根源である寿量文底の妙法を体現し、南無妙法蓮華経として弘めるゆえに、仏教の究極を極める存在となるのです。
10  深きに就く「勇者の心」
 「深きに就く」とは、何よりも自分自身が主体者として、勇敢に広宣流布に立ち上がる戦いです。
 現代において、この最も困難な戦いを貫いてきたのが、創価学会・SGI(創価学会インタナショナル)です。草創期以来、同志の皆さまは、悪口を言われ、批判され、中傷されながら、それでもこの人を救いたい、あの友に信心を教えたい、幸せになってほしいと、勇気を奮って信心の偉大さ、学会の正しさを語ってこられました。
 自分さえよければいい、他人のことはどうでもいいというエゴと無慈悲の時代のなかで、友の幸せを祈り、また地域・社会の繁栄を願い、ひたぶるに広宣流布に走ってこられました。
 まさに「六難」にある「悪世に法華経を説く」「一人のために法華経を説く」「少しでも法華経の意義を問う」という勇気と信念と求道の尊い行動を、来る日も、来る日も、実践してこられたのです。
 このように広宣流布に戦う「勇者の心」こそが、そのまま「丈夫の心」であり、「仏の心」となっていく。「仏の心」に通ずる尊き同志の皆さまの戦いがあればこそ、創価学会によって、未曾有の世界広宣流布の時代が開かれたのです。
 人間の生き方として拝すれば、「浅き」とは惰性であり、安逸であり、臆病です。この惰弱な心を勇敢に打ち破って、「深き信念」と「深き人間の偉大さ」につくのが「丈夫の心」です。
 「浅きに就くか」「深きに就くか」――。この生命の攻防戦は、自分自身の心においても一日のなかに何度もあることでしょう。
 人生も戦いです。弱い心に打ち勝ち、信心を根本として、「少しでも成長しよう!」「もう一歩、前進しよう!」「必ず勝利しよう!」と、勇敢に立ち上がっていく。この「深い生き方」を貫いてこそ、真の人生の勝利者になっていける。そのための私どもの日々の信心であり、学会活動なのです。

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