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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 文底 全人類を救う凡夫成仏の大法

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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6  宗教的精神を忘れるな
 さて、寿量品の「文底」に秘沈された、真の十界互具・一念三千による凡夫成仏は、「法華経の心」であり、「仏法の肝要」であり、また「宗教の根源」でもあると言えます。
 私はこれまで、識者との対談や海外講演で、折に触れて「宗教的精神」や「宗教的なるもの」の大切さを強調してきました。(マジッド・テヘラニアン対談『二十一世紀への選択』、本全集第108巻収録。ハーバード大学記念講演「二十一世紀文明と大乗仏教」、本全集第2巻収録など)
 「宗教的精神」とは、虚無から勇気を、絶望から希望を創造する精神の力であり、また、その力を自他の生命に、そして宇宙の万物に見いだしていく精神です。
 どんな苦難や行き詰まりがあっても、自分のなかにそれらを乗り越えていく力があることを信じ、行動し、新しい価値を創造していく魂が宗教的精神です。
 あらゆる宗教は、人間のこの宗教的精神から生まれてきたのであり、宗教的精神はいわば宗教の原点であり、源泉と言える。
 大聖人は、人々が無常なものに執着し、貪・瞋・癡に翻弄されて、不信と憎悪で分断されていく末法の時代は、宗教もまた、原点の宗教的精神を忘れ、人間から遊離して、硬直化し形骸化し細分化されたそれぞれの教義にとらわれ、争い合う時代であるととらえられました(闘諍言訟・白法隠没)
 そして、根源の宗教的精神を復活させなければ、人々も時代も救済できないと考えられたと拝されます。
 ゆえに、事実として人間生命に仏界を開いていく真の十界互具・一念三千を「文の底」にまで求めていかれたのです。
 だからこそ、人間の生命の永遠性を確かに把握し、人間が現実の行動のなかに永遠性を輝かせゆくことができる事行の一念三千として、文底の一念三千を確立されるに至ったと拝することができます。
 御文では、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗などは一念三千について”名さえ知らない”、また華厳宗と真言宗の二宗は”ひそかに盗み入れて自宗の教義の骨目にしている”と弾呵されています。
 一念三千を盗み入れたというのは、先ほどの文・義・意で言えば、文を盗み入れ、義に同じものがあるように装ったが、意にはとうてい及ばなかった、ということです。
 このような一念三千に関する混乱の姿は、当時の既存の諸宗派が宗教的精神を忘れていることを如実に示しています。
 永遠的なもの、絶対的なものを人間のなかに見て、人間生命を輝かせていくことを願う精神が宗教的精神です。
 大聖人の文底仏法は、その宗教的精神のままに立てられた教えなのです。
 戸田先生は言われました。
 「全人類を仏の境涯、すなわち、最高の人格価値の顕現においたなら、世界に戦争もなければ飢餓もありませぬ。疾病もなければ、貧困もありませぬ。全人類を仏にする、全人類の人格を最高価値のものとする。これが『如来の事』を行ずることであります」(『戸田城聖全集』1)
 戸田先生のこの言葉の通り、学会は大聖人に直結し、宗教的精神を大きく発揮して、「民衆仏法」「人間主義の宗教」を世界に広げてきたのです。
7  末法流布の大法
 この一節の結びとして、大聖人は、「一念三千の法門」を竜樹や天親は”知つてはいたが、それを拾い出して説くことはしなかった”、ただ、天台智者大師だけが”心の中に懐いていた”と仰せられています。
 「竜樹・天親・知って」とは、釈尊滅後の正法の系譜を継承した竜樹・天親も法華経の極理を知っていたとの内鑒冷然の原理を示していると拝されます。
 たとえば竜樹は、他の諸経では不成仏とされた二乗の成仏を説く法華経の「変毒為薬」の力を賛嘆して、法華経こそが真の秘密の法であって、他経にはこの力がないと述べています。これは、九界の生命に仏界を涌現する凡夫成仏を可能にする法華経の極理を知っていることを意味します。
 しかし、「知つてしかも・いまだ・ひろいださず」と仰せのように、「時」が未だ至らいために、一念三千を人々の前に提示することはなかったのです。
 そして、「但我が天台智者のみこれをいだけり」とは、像法時代の天台大師だけが、一念三千の観念観法を行じていたことを示されていると拝せます。
 しかし、天台大師の一念三千は実質上、自行にとどまっており、自他ともの凡夫成仏の法として広く弘めたわけではありません。
 一念三千を「知っていたが顕さなかった」「内に懐いていた」と正法・像法の正師たちについて言及されている元意は、日蓮大聖人こそが「末法に弘める」ことを言外に示されるためです。本抄の後半は、その大聖人の法華経の行者としての弘教について述べられていきます。
 文底の一念三千は「事行」の法です。「法」はがあるものではなく、”弘める”べきものです。「法」を弘めることによって万人の内なる仏性を照らし、その人自身を輝かせてこそ、初めて、法の価値は発揮される。言うなれば、価値を創造しなければ、法の存在意義は生まれないとさえ、言えるのです。
 その意味から言えば、「一念三千の法門」なかんずく「文底の一念三千」を、いっ、誰が弘通するのか。その主題抜きに文底の法を論じても、画餅にすぎない。
 真の一念三千の法門を末法に弘める者こそが、末法の主師親三徳であり、その教主とは日蓮大聖人にほかならないそれを明らかにしていくために、この文底秘沈の一節があるのです。

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