Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 主師親の三徳 一切衆生が尊敬する「人間主義」の指導者

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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13  凡夫成仏の「先駆」「手本」
 大聖人は、末法広宣流布の「最初の人」「先駆の人」として、一切衆生を救うために大法を弘められ、その戦いに自ずと主師親の三徳を具えられたのであります。
 また、大聖人の先駆の戦いを、それに続く弟子の立場から言うならば、末法における凡夫成仏の「模範」であり「手本」として拝することができます。
 大聖人は「一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し」と言われています。なかんずく、凡夫成仏の手本は大聖人以外におられないゆえに私たちは大聖人を「人本尊」と拝するのです。
 この点について、牧口先生が、真理を発見し教える「聖賢」の立場と、その真理を信じて実践し価値創造する私たち「凡夫」の立場を区別されたことを思い起こします。究極の真理を発見する「聖賢」は一人でよく、その他の人は真理を実践し証明することに果たすべき使命があると考えられたのです。
 すなわち次のように述べられています。
 「先覚の聖賢が、吾々衆生の信用を確立せしめんがために、教えを開示された過程(即ち説教体系)と、それを信じて導かれ、最大幸福の生活に精進せんとする吾々凡夫の生活過程とは、全く反対であるべきものである(『牧口常三郎全集』8。以下、同書から引用・参照)
 すなわち、”聖賢が出て、万人が信じ実践すべき根本法を確立した後は、私たち凡夫はその結論を実践して結果を体得してから、その法理を理解すればよい”と言われているのであります。
 それにもかかわらず、聖賢の教えを伝承する者が、聖賢が結論に至る過程まで追体験することを民衆に要求するのは「大いなる錯誤」、「道草を喰う無益の浪費」であるとし、真理と価値の混同を厳しく批判されています。
 自他ともの幸福の実現こそが人間の最高の目的であると考える牧口先生にとっては、現実に苦悩を除き、幸福をもたらすことが目的であり、そのための理論は手段にすぎなかった。
 さらに言えば、この実践の”模範”としては、凡夫、普通の人のほうが望ましいと考えられていたのです。
 つまり、「最高の具体的模範となる目標」であっても、あまりにも「完全円満」な存在であれば、見習う人にとっては「崇拝はするが及ぼぬとして近付き得ぬ目的」である。むしろ、「最低級なる姿」すなわち凡夫の姿のままで「下種的利益」をなす人こそが「最大無上の人格」であるとされているのです。
 現実に苦悩にまみれて生きる人間にとって模範たりえる人こそ、最高に尊いのです。
 日蓮大聖人は、苦悩の渦巻く時代に一庶民として誕生され、現実に生きる人間に仏界を涌現させるという人間主義の実践を貫かれた。
 それゆえに種々の難に遭われ、法華経を身読してその教説を証明し、人間のもつ偉大な可能性をその身の上に示し顕してくださった。
 牧口先生はその点について「それ(=釈尊の仏法、・なかんずく法華経)が日蓮大聖人の出現によ地上(=現実世界)に関係づけられ、しかもその御一生の法難などによって、一々因果の法則が証明されたとしたらば、理想だけの法華経が吾々の生活に現実に生きたことではないか」と述べられています。
 さらに「これは単に日蓮大聖人御一人に限ったことでなく、仰の通り、何人にでも妥当するものであることは、吾れ人(=自他)の信行するものゝ容易に証明され得る所である」とし、忍難弘通された日蓮大聖人こそが私たちの模範と仰ぐべき末法の御本仏であることを訴えられているのです。
 以上、牧口先生の卓越した洞察を見てきましたが、牧口先生が徹底して、信じ実践する者の側に立った信仰観をもっておられていたことがうかがえます。とともに、ここには、人間に平等な尊厳を見る「人間主義」の精神が示されていると言えます。
14  宗教観の転換
 最後に、大聖人の「主師親」観に拝することができる「宗教観の転換」について述べておきたい。
 大聖人は「諸法実相抄」で仰せです。
 「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり
 ――凡夫は仏の本体であり本仏である。釈迦・多宝などの仏は働きを示す仏であり迹仏である。したがって、釈迦仏は私たち衆生に対して主師親の三徳を具えられていると思っていたが、そうではなくて、かえって仏に三徳を与えているのが凡夫なのである――。
15  旧来の神仏の考え方から言うと、釈迦仏が衆生のために主師親の三徳を具えた偉い仏かと思っていたのに、実は、そうではない。衆生が仏性をもち、仏の生命を現す可能性を具えているからこそ、釈迦仏は衆生の主師親としての徳を発揮しうるのであり、それゆえ衆生が釈迦仏に三徳を与えているのであると言われているのです。
 ここでは、主師親三徳の考え方、そして、宗教のあり方について、「革命的な転換」がなされています。旧来の考え方で言えば、主君は民衆を支配し、従える存在です。師匠は、弟子を導き、鍛える存在です。親は、子を産み、子に敬われる存在です。このような関係だけで見ると、主・師・親は権威ある存在であり、そこから仏を主師親になぞらえても権威主義的な宗教しか生まれません。
 しかし、主君は民衆を幸せにしてこそ主君であり、師匠は弟子を一人前に成長させてこそ師匠であり、親は子を立派に育ててこそ親です。このような観点で主師親を見れば、主君は民衆が幸せになる可能性を持っていればこそ主君としての力を発揮できるのであり、師匠は弟子が立派に成長する可能性を持っているからこそ師匠としての徳を具えることができるのであり、親は子が一人前に育つ可能性を持っているからこそ親としての役割を果たせるのです。
 宗教も同じです。衆生が成仏できる可能性を持っているからこそ、仏は主師親の三徳を具えることができるのです。
 この大聖人の仰せには、神や仏に服従し、僧侶に拝んでもらう「権威主義の宗教」から、民衆が幸せになるための「人間主義の宗教」への転換が示されているのです。

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