Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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現実変革へ、智慧と勇気の大言論戦を  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

前後
9  池田 全人類を仏にしていこうとする法華経を実践するところに、仏の智慧が顕現して、民衆を救うための予言、智慧の言葉が生まれたということです。
 そして、その予言の言葉が的中したことをもって、大聖人が後生について説く法理、つまり成仏の法門を疑ってはならない、と仰せられている。
 「立正安国論」でも大聖人は、二難の予言をされた後、「後生」の問題を扱われています。次のように仰せです。
 「就中人の世に在るや各後生を恐る、是を以て或は邪教を信じ或は謗法を貴ぶ各是非に迷うことを悪むと雖も而も猶仏法に帰することを哀しむ、何ぞ同じく信心の力を以て妄りに邪義の詞を宗めんや、若し執心飜らず亦曲意猶存せば早く有為の郷を辞して必ず無間の獄に堕ちなん」
 〈通解〉――なかんずく、人はこの世にいる時は、おのおの後生のことを恐れている。そして、そのために、かえって、邪教を信じたり、謗法を貴んだりしている。人々がおのおの、仏法の是非に迷っていること自体はよくないと思うけれども、彼らもまた後生を恐れて仏教に帰依していることを哀れむのである。どうして同じく信心の力をもって、みだりに邪義の言葉を崇めているのであろうか。もし執着の心を改めることなく、正法を信ずる心を曲げてしまうならば、早くこの世を去り、後生は必ず無間の獄に堕ちてしまうであろう。
 ここで、大聖人は謗法に関して「後生」にかかわる問題に言及されている。
 大聖人の予言は、「三世の生命観」から述べられていることが示唆されています。
 森中 「撰時抄」でも、「三度の高名」を語る前に、「三世」という視点を明確に示されています。
 「外典に曰く未萠みぼうをしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみよう高名あり
 〈通解〉――外典にいわく「将来に起きることを知っているのを聖人という」と。内典にいわく「三世を知るを聖人という」と。日蓮には三度の高名がある。
 斎藤 外典の文にある「未萌」とは、"未だ萌していないこと"、つまり"いまだ起こっていない未来"という意味です。
 「萌」という字は、"草木が芽を出す"という意味です。
 池田 多くの人がまだ"兆し"さえも感じていない時に、ものごとの"芽"を鋭敏に見い出し、それに対して的確に対応する――。それができる人こそ、「聖人」と呼ぶに値するということです。
 森中 「聖人」の「聖」という字の起こりは、"一人抜きん出て立ち上がった人が神意を聞く"という様子を写したものだそうです。
 池田 まだ声になっていない声を感じ、聞き取っていく聡明な人のことです。
 斎藤 ここで仰せの「外典」とは、『説苑ぜいえん』ではないかと考えられます。
 同じ文が、為政者の心得を記した『貞観政要』巻第3の「論択官(官僚を択ぶことを論じる)第7」(官僚を択ぶことを論じる)にも引かれています。
10  池田 いずれにしても、大聖人がこの外典の文を引かれる時は、大聖人の仏法が正当なものであり、国家・民衆に資する社会性のある宗教であることを示されたものと拝することができるでしょう。
 この文を引用されている御書の多くは公的な書状です。社会的な立場から鑑みて、御自身の正義を訴えられる際に、この文を用いられています。
 森中 他方、「三世を知るを聖人」という言葉、天台大師の『摩訶止観』巻2上などにあります。『摩訶止観』では、過去は過ぎ去り、未来は未だ来らず、現在はとどまることはないものだが、諸の聖人は三世を貫く生命について知っていることが述べられています。
 池田 三世を貫く生命の因果を把握し、人々を苦悩から救い幸福へと導く人が、聖人であるということだね。
 森中 また、「立正安国論」等に引かれている仁王経には「我今五眼をもつて明かに三世を見るに」(同8巻833㌻)とあります。
 「五眼」とは、凡夫の肉眼、諸天の天眼、二乗の慧眼、菩薩の法眼、仏の仏眼です。仏は、この五種の智慧の眼を駆使して、明らかに三世を見通します。
 池田 仁王経で仏が五眼を用いて見た真実とは、"王の福徳が尽き一切の聖人が去った時に七難が必ず起こる"ということです。
 三世の生命の因果を明らかに見る智慧をもった人を正しく用いなければ、国は滅びてしまう――。そのことを大聖人は、この経文を引いて教えられたのです。
 三度目の諫暁の時に、大聖人は、"真言師(真言で祈る僧)は、病の原因を知らずに病を治そうとしてかえって悪化させる悪い医者のようなものだ"と指摘されている。
 無明と法性という善悪の根本を深く知って、その智慧から現実をありのままに見る「如実知見」の力をもち、苦悩・災難の根源を見抜く智者でなければ、実際に民衆の苦難を止めることはできない。
 では、どうすれば末法の凡夫が、その智慧を持つことができるのか。「聖人知三世事」には、釈尊の前世の姿である不軽菩薩と同じく、悪世の「法華経の行者」として経のままに民衆救済に戦う中で、自ずから湧き出た智慧が真実の智慧であることを示されています。
 斎藤 はい。「予は未だ我が智慧を信ぜず然りと雖も自他の返逆・侵逼之を以て我が智を信ず敢て他人の為に非ず又我が弟子等之を存知せよ日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継するの故に」と仰せです。
 〈通解〉――私はまだ自分の智慧を信じていない。しかしながら、自界叛逆難・他国侵逼難の予言が的中したことをもって、自分の智慧を信ずるのである。決して他人のおかげではない。また、我が弟子等は次のことを知りなさい。日蓮は不軽菩薩のあとを継いだので法華経の行者なのであることを。
11  池田 創価学会は、大聖人の仰せどおりの信心で、御本尊から仏の智慧をいただいたがゆえに、多くの民衆を救うことができたのです。「以信代慧」です。
 そして、あらゆる同志の力が、種々の智慧として総合的に働いて、今日の広宣流布の発展があったのです。まさに広宣流布は「普賢威神の力」、すなわち、あらゆる智慧の力で伸展するのです。
 予言は、三世永遠の法を教えるための一つの智慧の形です。永遠の法は見えない。それを智慧によって形に現し、人々の信を促していくのです。
 大聖人は「撰時抄」で、3度にわたり予言を的中させたのは「相如是第一」だからであると言われています。永遠の法を知る智慧を、「形」に現し、「行動」に現し、「実証」として現してこそ、法は広まっていくのです。
 広宣流布は、一人から一人へと法を伝える実践を積み重ねていく以外にないのです。
 斎藤 それゆえ「撰時抄」では、一人から一人へ、そして、一人から万人へという拡大の道のみが成仏の道であることが述べられています。
 「衆流あつまりて大海となる微塵つもりて須弥山となれり、日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」
 〈通解〉――多くの流れが集まって大海となる。小さな塵がつもって須弥山となったのである。日蓮が法華経を信じ始めたことは、日本の国にとっては一つのしずく、一つの塵のようなものであるが、二人、三人、十人、百千万億人と唱え伝えていくならば、やがて妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるであろう。仏になる道は、これよりほかに求めてはならないのである。
 池田 この仰せが、「三度の高名」の御文の結びとなっているということが重要です。日蓮大聖人にとって予言とは、見えない法を現して広宣流布を推進する「智慧の言葉」に他ならないのです。
 「百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる」です。
 日蓮大聖人は、諫暁という精神闘争の中で、予言の的中という「実証」をもって末法・日本国の闇を照らしました。
 同じように、私たちも、一人一人の勇気の行動と勝利の実証で、混迷の現代社会を照らし、現実変革の道筋を切り開いていきたい。

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