Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「宿命転換の大宗教」の確立  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

前後
16  願兼於業
 池田 宿命転換論の真髄は「願兼於業(願い、業を兼ぬ)」です。
 森中 はい。法華経法師品には、本来、大菩薩として偉大な福運を積んだ人が、苦しむ衆生を救いたいとの願いによって、悪世に出現して妙法を弘通する姿が説かれています。
 斎藤 このような在り方を、妙楽大師は「願兼於業(願が業を兼ねる)」と呼びました。
 本来は悪世に生まれる業はないのに、衆生を救うために自ら願って悪世に生まれ、悪世の苦しみを受けているのです。
 池田 日蓮大聖人の御境地そのものです。
 大聖人は「開目抄」で、御自身が妙法を流布して三類の強敵の迫害を受けていることは、経文に説かれた末法の法華経の行者の姿そのものであると仰せられています。そして、佐渡流罪に処せられたことで、ますます悦びを増していると宣言されています。
 斎藤 「開目抄」の結びの一節ほど感動的なものはありません。
 「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし
 池田 大聖人にとって、今、御自分が受けられている大難は、御自身の使命を果たすために願って受けている大難でる。つまり、一切衆生を救うために受けている苦しみだから大いなる悦びであると宣言されているのです。
 苦悩する民衆を救うためには、その民衆に同苦し、しかも、その苦しみを同じ人間として克服していく道を示すしかないのです。その偉大な戦いをなされた大聖人であるがゆえに、私たちは大聖人を末法の御本仏と拝するのです。
 ここに仏法の説く師弟の意義もある。
 仏法の師匠というのは、どこまでも現実に模範の行動をする人です。まず、師匠自ら、大いなる使命の人生を生きる。それを今度は、弟子が真剣に学び会得していこうとする。その「如説修行」の中に、法の体得もあるのです。この師弟が仏法の魂です。
 大聖人は佐渡流罪の大難のなかでの御振る舞いを通して、宿命転換の人生の範を、弟子たちに、そして後世に示してくださった。「かく、生きよ」という偉大な魂の軌跡です。
 大聖人は、御自身の一人の人間としての戦いを通して、悪世に生きる私たち凡夫の宿命転換の道を教えてくださったのです。
 いかに進退きわまった、業に縛られたような境遇にいる人であっても、その本質を見れば、願兼於業の人生であることを示されているのです。
 斎藤 それが、先生がよく語られている「宿命を使命に変える」生き方ですね。
17  池田 そうです。誰しも宿命はある。しかし、宿命を真っ正面から見据えて、その本質の意味に立ち返れば、いかなる宿命も自身の人生を深めるためのものである。そして、宿命と戦う自分の姿が、万人の人生の鏡となっていく。
 すなわち、宿命を使命に変えた場合、その宿命は、悪から善へと役割を大きく変えていくことになる。「宿命を使命に変える」人は、誰人も、「願兼於業」の人であるといえるでしょう。
 だから、全てが、自分の使命であると受け止めて、前進し抜く人が、宿命転換のゴールへと向かっていくことができるのです。
 森中 なくそうとか、避けようとか、逃げようとする生き方では、結局、宿命転換が遅れるというわけですね。
 池田 今、私たち創価学会が世界に向かって挑戦しているのは、人類の宿命を転換できるかどうかです。
 斎藤 そのことで忘れられないエピソードがあります。トインビー博士が池田先生に、次のように尋ねられたとうかがいました。
 博士は、こう質問されました。「仏教には宿業論があるが、過去世から続くという宿業を、人間は変えることができるのか」という内容だったと聞きました。
 池田 そうです。はっきりと覚えてます。人生の栄光も労苦も経てきた人のみが醸し出すあの柔和な笑顔で、眼光には知性の輝きがありました。鋭い質問でした。
 私ははっきりと答えました。「日蓮大聖人の仏法では、因果倶時で、自身の宿命転換を果たしながら、社会を変えていくことができる。これが21世紀の世界と人類を変革していけるかどうかの急所ではないかと思います」
 私が語ると博士は深くうなずかれていた。
 私は博士に誓ったままに、一点も悔いなく、人類の宿命転換のために行動してきました。私のあとに青年が続くことを固く信じながら。
 私は、日本だけでなく、SGIの青年たちが、人類の宿命を転換しゆく大いなる挑戦の炎を更に赫々と燃やして闇を照らしゆくことを確信しています。

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