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日蓮大聖人・池田大作

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「観心の本尊」は「信心の本尊」  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

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12  池田 宇宙根源の法も妙法蓮華経、自身の実相も妙法蓮華経です。仏の生命は妙法蓮華経が人格のうえに顕現した姿であり、その仏が説く究極の成仏の法も妙法蓮華経です。
 であるがゆえに、仏が顕した南無妙法蓮華経の御本尊を明鏡として、我が己心の御本尊を深く確信し、自行化他にわたって南無妙法蓮華経を唱えれば、妙法蓮華経と妙法蓮華経が共鳴しあって、自身が仏界と現れるのです。
 森中 それが観心の成就ですね。
 池田 そうです。「観心本尊抄」では、受持即観心の法門を明かした後に、経文を引いて観心成就の相を示されています。
 斎藤 己心の声聞界(二乗界)、己心の釈尊、己心の三仏(釈尊・多宝・十方諸仏)、己心の菩薩が現れると仰せです。つまり現れ難い四聖が揃い、我が己心に十界を見ることになります。
 森中 法華経信解品で四大声聞が迹門の教えを聞いて妙法を信受できたことに歓喜し、「無上の宝珠、求めざるに自ら得たり」と述べています。この言葉を挙げて、「我等が己心の声聞界なり」と仰せです。
 池田 この言葉はそのまま、末法の衆生が御本尊を受持することにより自然のうちに仏界を涌現できた時の歓喜を表現していることになります。ゆえに御本尊を受持する者の己心の声聞界に当たるのです。
 斎藤 次いで、釈尊が方便品で、過去世からの誓願を述べた次の言葉を挙げています。
 「我が如く等しくして、異なること無けん。我が昔の所願の如き、今は已に満足しぬ。一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」
 池田 衆生が仏と同じ境地に達することを願う釈尊の誓願です。
 妙法蓮華経を受持して仏の因果の功徳をすべて譲り受ければ、その人は仏と全く異なることがない生命となっていく。
 森中 それ故「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」と仰せです。
 〈通解〉――妙覚の悟りを成就した釈尊はそのまま妙法蓮華経を受持する我々の血肉であり、その境涯をもたらした因果の功徳は我々の骨髄に当たる。
 池田 この個所は、師である仏と同じく弟子である衆生が自身に具わる因果の功徳を自在に享受し用いる身になることが示されている。
 斎藤 法の功徳を自在に享受する仏が自受用身ですから、日寛上人の文段ではこの御文を「自受用身に約して師弟不二を明かす」と位置付けられています。
 次に、「法華経を受持する者は、釈迦・多宝・十方の諸仏を供養することになる」(趣旨)という宝塔品の経文を挙げて、「釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり其の跡を継紹して其の功徳を受得す」と述べられています。
 〈通解〉――釈迦・多宝・十方の諸仏は妙法蓮華経を受持する我らの仏界である。この三仏の跡を受け継いで仏界の功徳を受得できるのである」
 池田 三仏は己心の無作三身を顕している。釈迦は智慧の表象として報身、多宝は真理の表象として法身、来至した十方諸仏は慈悲の表象として応身に当たります。
 先ほども述べたように、妙法蓮華経を受持する者には、凡夫の身のままで無作三身の功徳が具わるのです。
 斎藤 子が親から全財産を受け継げば、全く親と同じであるように、無作三身という仏の全功徳を受け継いだ弟子は仏と同じです。ゆえに日寛上人は文段で、「無作三身に約して親子一体」を表す文と位置付けられています。
 森中 さらに寿量品には「然るに我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」とあります。久遠実成を明かす文です。
 この経文を挙げて、「観心本尊抄」では「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」と仰せです。
 〈通解〉――妙法蓮華経を受持する我等の己心の釈尊は五百塵点劫以前に三身を成就した仏であり、無始無終の古仏である。
13  池田 これは「永遠の法」である妙法蓮華経と一体の「永遠の仏」が己心に現われたことを言われているのです。すなわち、久遠元初自受用身であり、「日蓮がたましひ」です。
 森中 また寿量品の「我本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず、復上の数に倍せり」との経文を併せて挙げています。そして「我等が己心の菩薩等なり」と言われています。
 池田 その経文は、五百塵点劫に成仏した久遠実成の釈尊は、成仏後も菩薩行を絶やさないことを示しています。涌出品に出現する無数の地涌の菩薩は、久遠実成の釈尊の弟子ですが、釈尊の菩薩界を代表しているのです。
 同様に、妙法蓮華経を受持する者の己心に現れる永遠の仏にも、菩薩の眷属が現れます。それが、己心の菩薩界です。
 斎藤 永遠の仏が己心に現れれば、その眷属である菩薩界の生命も現れます。この関係を日寛上人は「君臣一体」と言われています。
 池田 悟った後に、他の浄土に去ったり、涅槃の静寂に入り込んでしまう仏は、真実の仏ではありません。成仏したが、九界の生命がなくなってしまうというのでは、真の悟りでも、真の成仏でもありません。
 九界の生命が渦巻く現実社会に入って、人々を救う菩薩界の生命を表に活動するのが真実の仏なのです。
 現実に様々な苦悩をかかえる一人一人に真正面から向き合うのです。徹して一人を大切にする。そして、たゆむことなく、一人また一人と幸福へと導いていく――その不屈の菩薩道の中にこそ、仏の生命が輝くのです。
 皆の幸福のために、心を砕き身を尽くし、あらゆる手立てを講じるのです。十界のすべての総動員です。九界のどの境涯であっても、必要なときに必要な境涯を現せるのが、本当の仏の自在さです。
 森中 「本尊抄」の観心成就の相を明かすところでは、最後に、妙楽大師の「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」との文が引かれています。
 池田 妙法蓮華経の五字の受持によって観心が成就し、自身の妙法蓮華経と宇宙の妙法蓮華経が一体化して自在の生命力を顕したときの自在の境涯が表現されています。

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