Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

「強き信心」で「大いなる希望」に生きぬ…  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

前後
12  森中 「一生成仏抄」では、心が「迷っているか、悟るか」で、世界も「浄土か、穢土か」が決まり、自分も「衆生か、仏か」が決まると仰せです。
 「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土えどと云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、たとえば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性ほっしょう真如しんにょの明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり
 〈通解〉――衆生の心が穢れれば国土も穢れ、心が清ければ国土も清いと浄名経に説かれているように、浄土というも穢土というのも国土に二種の区別があるのではなく、我らの心の善悪によると見られるのである。衆生といっても仏といってもまたこれと同じである。迷っている時は衆生と名づけ、悟った時には仏と名づけるのである。譬えていうと、映りの悪い鏡も磨けば玉のように輝いて見えるようなものである。この今の瞬間でも、生命の真実に暗い迷いの心は映りの悪い鏡のようなものである。これを磨けば、必ず悟りの真実を映し出す明鏡となるのである。深く信心を発して、日夜、朝暮に決して怠ることなく磨きなさい。どのようにして磨けばよいのか。ただ南無妙法蓮華経と唱えることを磨くというのである。
 池田 有名な御文です。
 妙法蓮華経が自分の生命を律する根本法であり、成仏の種子であると信じて、南無妙法蓮華経と唱え続ける信心と実践がある人が、即ち仏であると仰せです。凡夫も仏も、人間として本質的な違いはない。心の違いです。行動の違いです。
 心すべきことは、自分の生命が妙法蓮華経の当体であると信ぜよという大聖人の勧めです。また、自分の生命のほかに求めたら、もはや妙法ではなく◎法(=劣悪な法)になってしまうという戒めです。その「確固たる信」にこそ、妙法蓮華の功徳が開花するのです。
 妙法蓮華経への信の「一心」こそ、仏界の生命と現れるのです。妙法蓮華経への信の「持続」こそ、そのまま成仏の姿です。
 森中 「妙法蓮華経への信の持続」という因行が、そのまま成仏の姿なのですね。
13  池田 受持即観心です。果徳は、さまざまな姿を現すことが可能です。
 一つの言葉や像では表せません。当然のことながら、経典や仏像で描かれている色相荘厳の姿になるわけでもない。
 しかし、精神の面で、あえて言うなら、戸田先生が示された「大いなる希望」がそれに当たるでしょう。自らの内から起こってくる自身の成仏への確信と人生の意味の把握、また万人の成仏への確信が、その大いなる希望の内実です。
 森中 これまで論じられてきた「広宣流布の大願」や「自他共の幸福を願う心」が、それに当たりますね。
 池田 何があっても崩れない絶対的幸福ともいえます。
 斎藤 御本尊は、妙法蓮華経への信を一人ひとりが生涯、貫いていくために顕されたと拝せます。
 池田 一人の人の受持のためであるとともに、広宣流布のためでもあると拝せます。「法華弘通のはたじるし」と大聖人は仰せです。
 大聖人は、個人がこの妙法蓮華経の一法の受持を生涯貫いて、一生成仏していけるために、また、この信を一人から一人へと弘めて国土の成仏、平和を実現していくために、御本尊を顕してくださったのです。
 御本尊については、別の機会に改めて、詳しく拝していきたいが、この御本尊を明鏡として、私たちは受持即観心、信即成仏を実現していくことができるのです。

1
12