Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

末法の闇を照らす「人間宗」の開幕  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

前後
10  池田 そうだね。四箇の格言の本質は、当時の各宗の独善性と、その独善性を宗教的権威で隠す欺瞞性を見破り、厳格に指摘された大聖人の「智慧」の発現だということです。
 また、その根底に、民衆を守る「慈悲」が漲っていたことは言うまでもありません。
 つまり、各時代において、民衆の幸福を妨げる思想・宗教を見破っていく智慧を発揮していくことが、四箇の格言の「継承」になるといっていいでしょう。
 斎藤 今日においては、日顕宗の本質をえぐり、破折していくことが、それに当たると思います。
 池田 四箇の格言を、大聖人が唱えられたものだからと言って、人々の心を無視し、時代の変化を無視して、ただ繰り返して唱えても、かえって大聖人の御心に背くことになりかねない。それでは、ドグマ(教条)になってしまう。宗教の魔性は、そういうところに現れてくるからです。大事なのは人間であり、心です。
 四箇の格言は、民衆を惑わす魔性とは断固として戦うという、大聖人の確固たる信念の現れです。
 その点を見失い、四箇の格言を表面的・教条的に捉えて、大聖人の仏法は排他的であり、非寛容であるというのは、あまりにも浅薄な批判です。
 斎藤 オックスフォード大学のウィルソン博士は、先生との対談集『社会と宗教』のなかで「意識的・積極的に宗教的寛容を奨励することと、多神教的ないし混淆主義的な伝統の中での宗教的無関心との間には、違いがある」と指摘しています。
 少し難しいですが、日本的な宗教土壌では、宗教的無関心が寛容であると勘違いされやすいということですね。そのような所では、確固たる宗教的信念が、排他的とか非寛容であると誤解されやすいと言えます。
 池田 四箇の格言は、排他主義でも非寛容でもありません。その本質は、大聖人の妙法の智慧に照らされた理性的な宗教批判だからです。すなわち、一次元からいえば、この四宗は偏った宗教の四つの類型を示しているのではないだろうか。
 この四宗への批判によって、大聖人の考えられている円満な宗教が浮き彫りにされてくると見ることができます。それは、本来あるべき宗教の特色を、偏頗なく調和的に含んでいる円教です。一言で言えば「人間のための宗教」です。
 四宗によって示される四つの類型とは、以下の通りです。
 ① 絶対者の他力による救済を説く宗教(念仏)
 ② 自力のみによる悟りの獲得と悟りへの安住を説く宗教(禅)
 ③ 呪術による現世利益を説く宗教(真言)
 ④ 戒律・規範による外からのコントロールを説く宗教(律)
 円教とは、この四つのいずれにも偏ることなく、「自力と他力の一致を説き、その力に基づく人間変革と現実変革を説く宗教」と言えるでしょう。
 「自力と他力の一致」とは、自分を超える力(他力)を自分のなかに見ることです。つまり、少々、難しい表現になりますが、大聖人の仏法で説かれる「仏界の内在と涌現」が、それに当たります。これは、まさに日蓮仏法の真髄にほかなりません。
 斎藤 我が己心に仏界を涌現するための「観心の本尊」は、まさにこの円満な宗教の要ですね。
11  池田 この本尊論については、また別の機会に論じよう。
 四つの類型は、日蓮仏法にあっては、一人の人間の変革を支える次のような力と現れ、積極的な意味を持つように活かされます。
 ① どんなに疲れ病む衆生をも、仏界の生命力で包み、絶対の安心感を与える。
 ② 自分のなかに自分を変革する力があることを信じ、それを実際に実感していける。
 ③ 現実の変革に勇気をもって邁進していける。
 ④ 内なる智慧の力で煩悩を制御し、悪を滅していくことができる。
 四箇の格言の現代的意義は、単なる日本の宗派の破折という次元にとどまるのではなく、円満なる人間の生命の力の開花にあると言えるのではないだろうか。これが「妙法蓮華」であり、無限なる「価値創造」なのです。この大聖人の円教を立て、初めて社会に宣言したのが立宗宣言です。それは「人間宗」の開幕です。大聖人は、そこに、永遠かつ根本的な人類救済の大道を示してくださったのです。

1
10