Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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誓願に貫かれた大聖人の御生涯  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

前後
12  斎藤 七十五万世帯という途方もない数字に、実にいろいろな反応があったとお聞きしています。
 池田 当時の学会の全世帯数は数千だから、まさか七年で成し遂げるとは、誰も考えていなかったでしょう。ある人は「七万五千」の間違いではないか。ある人は、戸田先生は更賜寿命で、途方もなく長生きをされるのでは、と考えた。
 ある人は戸田先生を品川沖に流すことなど、とてもできないと本気で嘆いた。なにしろ、その時の聖教新聞の報道にすら、「七十五万」という数字は一回も出てこなかったくらいです。品川沖どころか、師の誓願を葬り去ろうとした幹部がいたのかもしれない。
 私自身は、これから広宣流布の真剣勝負が始まるのだなと心が引き締まる思いだった。
 とにかく戸田先生の切実な思いは皆に伝わってきた。それで、皆、立ち上がったのです。私も戸田先生の弟子として、師匠の願業を実現するために、青年部の先頭に立って、折伏・弘教の大前進を開始しました。
 斎藤 七十五万達成の突破口となった、若き池田先生の蒲田での「二月闘争」から、この二月(二〇〇二年)で満五十年になります。
 池田 一切の原点は「師弟」です。
 戸田先生の獄中の悟達も、牧口先生と師弟不二の心で、死身弘法の信心に奮い立たれたことに起因する。
 牧口先生は、大聖人の仏法が、僧侶に拝んでもらう宗教なのではなく、自他共の幸福を目指す大善生活を実現できる宗教であるとの本質を見抜かれていた。だから、僧侶に拝んでもらうだけの単なる信者であっては絶対にならないと叫ばれた。
 斎藤 はい。こう述べられています。
 「信者と行者を区別しなければならない。信ずるだけでも御願いをすれば、御利益はあるに相違ないが、ただそれだけでは菩薩行にはならない。自分ばかり御利益を得て、他人に施さぬような個人主義の仏はないはずである。菩薩行をせねば仏にはなられぬのである。即ち親心になって他人に施すのが真の信者であり、かつ行者である。が、さてそうすると必ず魔が競い起こる」「自分一個のために信仰している小善生活の人には決して魔は起こらない。之れに反して菩薩行という大善生活をやれば必ず魔が起こる。起こることを以って行者と知るべきである」(『牧口常三郎全集』第十巻)
 池田 障魔が起こっても菩薩行という大善生活を貫け! と呼びかけておられる。
 まさに、大聖人が一生涯、貫かれた広宣流布の大願に直結する行動です。
 斎藤 学会は牧口先生から三代にわたって広宣流布の大願を確かに受け継ぎ、また大きく広げてきたのですね。
 戸田先生が池田先生に語った「一千万」の実現の願いは、まさに象徴的です。
 池田 広宣流布の大願をもって拝してこそ、大聖人が一閻浮提総与の大御本尊を建立された御心に適う。御本仏の仏界の生命が感応してくる。
 だから学会の信心には、無量無辺の大功徳がある。
13  万年の外、
 池田 最後に、「報恩抄」の御文を拝しておきたい。大聖人の勝利宣言、末法万年の広宣流布宣言とも言うべき一節です。
 斎藤 謹んで拝読します。
 「」(三二九㌻)
 〈通解〉――日蓮の慈悲が曠大であれば南無妙法蓮華経は万年のほか、未来までも流布するであろう。日本国の一切衆生の盲目を開く功徳がある。無間地獄の道をふさいだのである。この功徳は伝教・天台にも超過し、竜樹・迦葉にもすぐれている。
 極楽百年の修行は、穢土の一日の修行の功徳に及ばない。正法・像法二千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るであろう。
 これは、ひとえに日蓮の智慧がすぐれているからではなく、時がそうさせるのである。春には花が咲き、秋には果実がなる。夏は暖かく、冬は冷たい。これも時がそうさせることではないか。
 池田 これは、大聖人の未来に向けての誓願であり、未来の法華経の行者に呼びかける御遺命の文とも拝することができる。
 「日蓮が慈悲曠大」とは――大聖人が末法の衆生を根底から救う法戦をしてくださったこと。大難に耐え抜いて、そして、その戦いのなかから万人を救う仏種である南無妙法蓮華経を顕してくださったことです。
 その功徳は、末法万年を超えて尽未来際まで及ぶと仰せです。
 広宣流布の源流における大聖人のこの戦いを受け継ぎ、断じて絶やしてはならない。そして、その無限の功徳を、一人でも多くの人に受けさせていきなさい。そこにこそ、人類の「平和」と「幸福」の光道がある――。
 そのように、私たちに呼びかけてくださっているのです。
 末法万年から見れば、まだまだ草創期です。
 初めて広宣流布が世界に拡大したのが、現代です。その時代を担う自覚も新たに、勇み進んでいきましょう。

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