Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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全民衆を救う誓願の結晶  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

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7  「詮ずるところは天もすて給え」
 池田 そういう「永遠の仏」を説くのが法華経であるとすれば、まさに如来の誓願に生きる人こそが真の法華経の行者と言わざるを得ない。
 「開目抄」はまさに、大聖人こそ真の法華経の行者であり、即ち末法の御本仏であられることを明かされた書です。
 大聖人の御生命に広宣流布の大願が脈打っていることを明かした大慈大悲の書です。
 その核心は「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」で始まるあの一節です。
 斎藤 はい。拝読してみます。
 「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」と。
 〈通解〉――(次々と大難に遭う大聖人が本当に法華経の行者であるのか、法華経の行者であるならば何故に諸天の加護がないのか、という人々の疑問について経文と道理に照らして種々、検討してきたが)結局のところは、天が私を捨てるのであれば捨てるがよい。多くの難に遭わなければならないのであれば遭ってもかまわない。身命をなげうって戦うのみである。
 舎利弗が過去世に六十劫の菩薩行を積み重ねたのに途中で退転してしまったのは、眼を乞うバラモンの責めを堪えられなかったからである。
 久遠の昔に下種を受けた者、あるいは大通智勝仏の昔に法華経に結縁した者が、退転して無間地獄に堕ち、五百塵点劫、三千塵点劫という長遠の時間を経なければならなかったのも、悪知識に会って惑わされたからである。善につけ、悪につけ、法華経を捨てるのは地獄に堕ちる業なのである。
 「大願を立てよう。『法華経を捨てて観無量寿経を信じて後生を期するのならば、日本国の王位を譲ろう』『念仏を称えなければ父母の首をはねるぞ』などの種々の大難が起こってこようとも、智者に私の正義が破られるのでないかぎり、そのような言い分に決して動かされることはない。その他のどんな大難も風の前の塵のように吹き払ってしまおう。私は日本の柱になろう。私は日本の眼目になろう。私は日本の大船になろう」と誓った誓願を決して破るまい。
8  池田 大聖人の不惜身命、死身弘法の「戦う心」を示された御文です。そして、その「戦う心」を支える根本として、御自身の「大願」を確認されています。
 この「戦う心」と「大願」こそ法華経の真髄の魂であり、日蓮仏法の根幹です。
 斎藤 「開目抄」では、この御文に至るまでに、法華経の経文に照らして大聖人が法華経の行者かどうかを検証されています。法華経の行者であるならば、どうして法華経に説かれているとおりに諸天の加護がないのか、という人々の疑問を晴らすためです。
 池田 また、法華経の行者の本質を明かすためでもあるね。
 斎藤 はい。その検証の結果、確かに大聖人は、「三類の強敵」による迫害を受けるなど、法華経に説かれているとおりの法華経の行者であることは間違いないことが確認されます。
 しかし、法華経の行者であるのなら、何故、現世安穏ではないのか。現世安穏でなければ信仰する意味がないではないか、という疑問が残ります。
 法華経の行者であるにもかかわらず、ともかくも難に遭って苦しまなければならないのはなぜか、また、迫害者に現罰がないのはなぜか。その理由が述べられていきます。
 池田 仏法の極致の御省察が続いていきます。そして、旭日が豁然と輝きわたるかのように、「詮ずるところは天もすて給え……」という一節が始まるのだね。
 「開目抄」の「開目」とは、「目を開け」という意味と拝します。
 この一節を拝する者は、まさに、ここに述べられている大聖人の大願に眼を開かざるをえません。
 「日蓮の大願に目を開け」というのが「開目抄」の根本趣旨なのです。
 末法の世に仏と同じ大願を生きる人こそが末法の法華経の行者なのであり、諸天に守られるかどうかは二義的な問題なのです。
 斎藤 「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ」の一節が大聖人の大願の中心的な内容となっています。
 池田 先に述べたように、「大願」とは法華経に説かれた仏の広大な誓願です。万人を成仏させようという仏の願いです。
 それを実現していくために大法を弘めようという大聖人の大願です。
 「我日本の柱とならむ」等の誓いは、まさに仏の誓願に通ずるのです。
 斎藤 日本だけを特別視していると解釈する人もいますが、そうではありませんね。
 池田 「日本の」と言われているのは、大聖人が日本を特別視しているからではない。「一閻浮提」というように、日蓮仏法による救済は日本のみに限定しているものではないからです。
 大聖人が仰せの「日本」とは、一つには、「典型的な末法の国土」としての日本であり、その救済を言われているのです。
 つまり、ここで言われている日本の救済とは、結局、末法全体の救済を意味するのです。また、どこまでも具体的な現実世界の救済を目指されているからこそ、「日本の」と言われているのです。ここに「事」の仏法としての日蓮仏法の特質があるといってよい。
 法華経に示された仏の大願は全衆生の成仏を願うものです。それを前提としつつ、具体的に「今」「ここ」における民衆の救済を誓われているのです。
 斎藤 大聖人が目指したのは、日本という国家の安定であるとし、大聖人の仏法を国家主義的なものとして解釈する人もまだいるようです。
 池田 大聖人が目指された根本は「民衆の安穏」です。それは「民衆の幸福」のことです。「民衆の平和」のことです。故に、その民衆の命運を左右する権力や国家の在り方を問題にされたのは当然のことと思う。人類の安穏のために国家の安定も望まれていたでしょう。ここに、大聖人の画期的な民衆観、国家観がある。
 仰せの「日本」とは何よりも民衆が生きる国土であり、生活する社会であって、権力者が支配するものとしての国家が第一義ではないのです。
9  ガンジーの決意
 斎藤 伝統的には「日本の柱」は主の徳、「日本の眼目」は師の徳、「日本の大船」は親の徳に配されます。
 池田 仏の三徳だね。「万人成仏」という仏の誓願に通ずる大願ですから、当然、仏の徳に通じます。
 ここで大聖人は、自分が仏だと誇っているわけではありません。御自身の大願を明かして、弟子たちに勝利の道を教えているのです。
 大願は、強き自分をつくるからです。
 大切なことは、誓願とは弱き自分を捨て、強き自分を何があっても貫き通すための支えであるということです。
 斎藤 ガンジーの誓いの話があります。
 ガンジーが若き法律家として南アフリカで活躍していたとき、インド人差別の法律が制定されることになりました。そのときに、インド人たちは、反対運動に立ち上がる集会を行った。そこでガンジーが強調したことは、この場で誓いを立てるのであれば、一人になっても最後の勝利をもぎ取るほどの強い誓いでなければならないということでした。
 中途半端な気持ちであれば、ここで誓約すべきでない、とまでガンジーは言ったそうです。
 「もしただ一人になったとき断固として立つ気持ちも、力も、持ち合わせていないのであれば、その人は誓約しないだけでなく、決議に対して反対の意志を表明すべきであります。(中略)各人は他人がどうあろうとも、たとえ死に至ることがあろうとも、誓約には忠実であらねばなりません」(ルイス・フィッシャー著、古賀勝郎訳、『ガンジー』、紀伊國屋書店)
 これが、ガンジーが生涯貫いた非暴力運動の出発点になりました。
 池田 何事であれ、偉大なことを成し遂げる根本には誓願があります。いかなる理由があっても、途中で諦めたり、退転するのでは、誓願とは言えません。中途半端な願望では、誓いの意味をなしません。
 「いかなる大難も風の前の塵のように吹き払おう」と大聖人は言われています。
 強い自分にこそ、真の安穏があるのです。
 誓願によって「強き自分」を確立したときに、本当の現世安穏が開かれるのです。
 反対に、「善につけても、悪につけても、法華経を捨てるのは地獄の業である」と厳しく言われておられる。魔性に負けて、自己自身に負けて、途中で挫折する「弱い自分」は地獄に通ずる。どこまでも人生は勝負。ゆえに仏法もまた勝負です。勝つことが正義であり、幸福であるからだ。
 斎藤 「開目抄」では、この後、日蓮仏法の根本である広宣流布の大願に生き抜く功徳を明かしていきます。その功徳とは転重軽受と一生成仏です。
 池田 あの「我並びに我が弟子……」の一節を挙げて、大願に生き抜けば、求めずとも一生成仏が達成されると明言されています。
 誓願は「人間性の真髄」です。
 仏の大願という最高の願いに生き抜けば、いかなる大難にあっても真実の人間性の柱が厳護され、そこにこそ生命の魂が輝いていくのです。ゆえに悪世、そして五濁の末法に、人間が人間として生き抜くには、誓願の力が大切なのです。

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