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日蓮大聖人・池田大作

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発想の泉  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
4  そういう反省は、これまでにもなかったわけではない。実際、複雑精緻な思索の森に、一度、身を入れ、そこでしだいに迷路に陥ると、人はまた、素朴な第一義ともいうべき出発点に戻らざるをえないものなのである。
 西洋哲学が、煩瑣な外套をまとって、哲学のための哲学に自己運動化する傾向がみられたとき、きまって強調されるのが、ソクラテスであり、デカルトであり、ルソーであるということは、興味深い事実である。言うまでもなく、ソクラテスは、「汝自身を知れ」との命題を、自己の哲学の出発と究極においた哲人であり、デカルトは「考える自我」、ルソーは「自然に還れ」という透徹した英知を秘めた思想家である。
 しかし、考えてみれば、この「汝自身」といい、「考える自我」といい、「自然に還れ」といい、その表現の奥にある発想は、決して複雑なものではない。否、むしろ、きわめて単純にして素朴な発見といってよいのではなかろうか。
 もちろん、これら先哲がこの結論や真理の発見にいたった道程は、単純なものではなかったろう。一つの事象に対し、それこそ壮絶ともいうべき対決を挑みながら、積み重ねていった結果の洞察なのである。
 ただ私が強調したいのは、歴史を動かす発見や真理というもの自体は、決して複雑なものではない。変動してやまない多様な事実の背景には、きわめて素朴にして平明な真理が、動かすべからざるものとして横たわっているものである、ということである。
5  「コロンブスの卵」という言葉がある。一つの偉大な事業や発見というものは、それがなされてしまえば、決してはるか彼方にあるものではなく、むしろ日常の平々たる地点にあるもののように思われるものだ。しかし、その身近な、ある意味では素朴であるといってもよい死角に、勇気をもって英知の光をあて、そこから普遍的な真理を浮き彫りさせることは、なかなかできないことなのである。哲人や偉人といわれる人物の行動や探究の裏には、かならず、こうした一見なんでもないような、それでいて画期的な発見、発想がある。それゆえにこそ歴史上にその名を長くとどめているのであろう。
 現代は、膨大な知識の洪水のなかで、こうした、瑞々しい大きな価値の創造をもたらす発想、発見が喪失されているのではないだろうか。
 思想、哲学がすぐれているか否かを決めるのは、複雑とか単純とかいった問題ではなく、創造的な発想をどこまで生かしきっているかだと思う。すぐれた思想体系の根底には、かならず生活体験から生まれた発想があり、それは、だれにでも理解でき、共感しうるものであるにちがいない。それを欠いた思想哲学は、どんなに壮大な体系を誇ろうとも、あえて言えば、ただ空しい殿堂にしかすぎまい。現実の人間生活の汗と体温のぬくもりのなかに、汲めども尽きぬ発想の母がある、と私は信じたい。

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