Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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民の心に聴く  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
2  “鼓腹撃壌”の故事として知られているものである。 「帝力我に何かあらんや!」──後藤基巳氏の訳によると「天子さまなぞ/おいらの暮らしにゃ/あってもなくても/おんなじことさ」(同前)となる。まこと政治の本質を言い得て妙ではなかろうか。尭帝の善政は、水や空気のように人びとの生活に溶けこみ、それと意識されることなく民を守り、暮らしの隅々まで潤していたのであろう。
 私はそこに、政治の一つの理想の姿を見る思いがするのである。もちろん、これは古代の伝説的故事ではある。混迷と複雑化をきわめる現代社会からは、はるかに遠い。
 しかし、尭と、それにつづく舜の治世が、永く語り継がれてきたのは、人びとが尭舜の世に、現実の世で得られぬ理想の政治家像を仮託してきたからにちがいない。言わば、この故事には、現実政治の矛盾と乱れに苦しむ、民衆の切なる願いがこめられているといってよいだろう。
 無為にして治まる、と一口にいうが、そこには無私の心で民の声に耳を傾ける姿勢がある。“天子さまなぞ関係ない”といわれて喜ぶ、指導者の大きさがあった。
 日蓮大聖人は御遺文集のなかで「尭舜等の聖人の如きは万民に於て偏頗無し人界の仏界の一分なり」と述べられている。
 尭や舜が万民に対して偏頗の心なく、平等に善政を行ったのは、人の生命に備わっている、仏界の働きの一分のあらわれともいえる、というのである。
3  いまの世の、政治のあり方はどうだろう。
 ロッキード、ダグラス、グラマンなどの航空機疑獄、KDD、税政連、トバク事件など、“鼓腹撃壌”どころか、寸刻も政治監視の目を離すことはできないありさまである。今回の衆参両院同時選挙(昭和五十五年)で、政治の浄化ということが大きな焦点となっていることに、私は感慨新たなものがある。というのも、昭和三十年代、わが有志を政治の世界へ送り出したとき、最も強く訴えたのが、この点であったからである。
 当時は「素人論議だ」といった類の嘲罵が、数多く投げかけられたものである。それから二十幾星霜、政治の浄化は、いまや国民的課題となってきているのである。
 今年の初め、私はこの随想で、日本の現状は「噴火山上に踊る」ありさまにほかならない、と述べた。どうやら火口は噴煙をあげ、多量のマグマ(岩漿)を流し始めたようである。
 「天の聡明は、我が民の聡明に自う」と古の賢人も言った。日本の前途を大事にいたらせないためにも、賢明なる民衆の存在、民衆の政治選択というものが、いまほど大切になってきた時代もないと思うのである。

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