Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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二本の蘆束(あしたば)  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
3  夫婦の愛情のあり方や、嫁姑の間のいざこざなど、たしかに、人類の歴史とともに古く、いまなお新しい難題といってよい。しかし、当事者のうちだれか一人でもいい、「かれがあるから、これがある」──すなわち、相手があるから、いまの自分があるとの、確たる人生観に立てば、その人の周囲には、決して無用ないざこざは起きないものだ。相手の善し悪しによって自分が決まるのではない。夫や姑がどうあれ、それに「縁りて」現在の自分があるという事実。そこに着目すれば、いっさいをみずからの成長の因としていけるのではなかろうか。
 もとよりこれは、言うは易く、行うに困難な問題であることも、私は承知している。それだけに、いっさいが互いに相「縁りて」存在しているのだという、共生・共存の生命感覚が大事になってくると思うのである。
 大宇宙の小さな、青いオアシスに生まれ、縁あってかぎられた一生を、互いに共にする身である。そうであればあるほど、いがみ合ったり、犠牲を強いたりしていてよいはずはない。この深い慈しみの情こそ、不和を和合に変えていく、テコともなるのではなかろうか。
 ハムスターの“墓”に合掌する少年の姿に、私はそうした生命感覚の萌芽を、感じ取ったのである。
4  志賀直哉に『和解』という、半自叙伝風の佳品がある。
 父と子の確執と和解を描いた名作だが、そのなかに、子である主人公が、妻の出産を手伝う場面がある。夜明け前のことで、医者が間に合わず、妻の両肩を押さえ、泊まり込みの看護婦と悪戦苦闘、無事出産──。
 「赤子はすぐ大きい生声を上げた。自分は興奮した。自分は涙が出そうな気がした。自分は看護婦のいる前もかまわず妻の青白い額に接吻した。(中略)
 妻は深い呼吸をしながら、自分の目を見上げて力のない、しかし安らかな微笑を浮かべた。
 『よしよし』自分も涙ぐましい気持ちをしながらうなずいた。自分には何かに感謝したい気が起こった。自分は自分の心が明らかに感謝をささぐべき対象を要求している事を感じた」(岩波文庫) 一つの生命の誕生という厳粛な事実、その感動。夫と妻、親と子──。主人公は、ほどなく父との永年の不和にピリオドを打つ。父との和解は、それにもまして、みずからの心との清らかな和解であったであろう。

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