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日蓮大聖人・池田大作

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「報恩抄」 仏法の要諦は”一人立つ精神”

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

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16  仏法流布における「時」の重要性を、鋭く明言された一節です。
 当時、末法といえば、正像二千年が終わり、その延長として、暗いイメージをともなっていました。それに対し、日蓮大聖人は、末法という時代が、いかに光輝に包まれた時であるかを確信せられています。
 更に私は、この一句に万感を込めて、広宣流布の時を感じられている大聖人の御心境が胸に迫ってくるのであります。夕日のごとく地に落ちていく既成の釈尊の仏法――それに対し、旭日のごとく昇りゆく胸中の灼熱のエネルギーを持った大仏法、その対照はあまりにも鮮やかであったに違いありません。
 この一節から、大聖人は、一人の人間の偉大な智力よりも、時にかなった実践行動を展開する有智の民衆の力こそが偉大であることを教えられていると、私は拝するのであります。
 次の文に「春は花さき秋は菓なる夏は・あたたかに冬は・つめたし時のしからしむるに有らずや」とお述べのように、仏法三千年の弘通を貫く主軸は「時」であったことを、天地自然の道理を挙げて説かれています。
 「撰時抄」の冒頭の有名な一句は「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」との御文であります。
 「必ず先づ」とある。”教、機、時、園、教法流布の先後”という”宗教の五綱”の中核をなすものは「時」であり、ここにすべてが包摂されるといってよい。例えば、機といっても民衆の鼓動は絶えず時代精神を反映したものであり、時の中にすべて含まれているのです。
 だが「時のしからしむる耳」との仰せを、ただ漫然と時を過ごしていれば、いつかは自然と広布の時がくるというように、受動的に固着化してとらえるのは、明らかに誤りであります。それは、身近な例で言えば、電気炊飯器のスイッチも入れず、時がくればご飯が炊けるであろうと、はかなく夢想しているようなものと変わりはない。ゆえにこの御文は、御本仏日蓮大聖人に連なり、地涌の門下としての能動の誓いを込めて受け取らなければならない御金言と受けとめたいのであります。
17  時代を動かすものは、主義にあらず人間である――と言った先人がいます。我々もまた、一人の人間革命が日本の運命、世界の宿命をも変えていくことを確信している。
 日寛上人の「撰時抄文段」には「『時を知る以ての故に大法師と名づく』と云云。文意に云く、時尅相応の道を知るを以ての故に大法師と名づくと云云。大法師とは能く法を説いて衆生を利する故なり」(文段集二二二㌻)とあります。
 時を知り、時尅相応の道を選びつつ、衆生を利する大法師の出現があって、初めて広宣流布への確実な歩みが開始されることを忘れてはならない。末法の初め、時代と民衆が無明の深き眠りについていたころ、御本仏日蓮大聖人は末法弘通の大法を建立された。その法性の慧火は七百年余の歳月を経て、今旭日となり、地平を昇り始めています。
 総じて、時を知る――とは、人々が何を欲しているか、人情の機微を知ることも、人心の帰趨を知ることも含まれる。いかなる激浪をも乗り越え、機雷を回避しつつ、現実の舞台の中でカジを取り、眼光鋭く本源を見抜いて適切に処置をとる人でなければなりません。
 ゆえにそれは、民衆救済という大責任に立った時に、取りうる行動といえますし、その時にこそ初めて、民衆の有智の団結の輪はつくられゆくのであります。
 かつて、戸田先生は、広布を担いゆく丈夫に「いまはいかなる時かを凝視して」と呼びかけております。
 今、皆さんの敢闘によって、学会は、いよいよ時を得て、民衆の文化と平和へ貢献しゆく道を、着実に歩んでおります。どうか今後とも、広宣流布のために、立派な指導者に育たれるようお願い申し上げます。

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