Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「開目抄」 御本仏の御境界を拝す

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

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17  実践こそ仏法の生命
 「大海の主となれば諸の河神・皆したがう須弥山の王に諸の山神したがはざるべしや、法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし」
 「六難九易」は、法華経見宝塔品第十一に説かれています。法華経を仏滅後に受持することが、いかに至難であるかを明かしたものです。
 この宝塔品には三箇の鳳詔といって、滅後の弘法を三度にわたり勧め命じている。その第三の諌勅の中に、この六難九易の原理が説かれていることは、仏滅後末法の妙法広布に生きる勇者に、なみなみならぬ決意を要請するためであります。
 須弥山を接って他方の無数の仏土に榔げ置いたり、乾いた草を背負って劫火の中に入っていっても焼けないことなど、およそ普通では不可能、あるいは不可能に近い難事の例を、九つ挙げている。そして、これを法華経実践の六例に比べれば、なお易しいことだと経典が述べていることは、すでにご承知のことと思います。
 法華経流布には大難があることを示した、この「六難九易」を引かれて、大聖人は、もしもこの六難九易を実践する人がいるとすれば、その人こそ仏法の王者である、たとえ一切経を読み実践しなくても、これら経教の原理が一つの例外もなく、この法華経の行者のものになると仰せであります。
 これは、大聖人こそが一切の仏の根源の御本仏であるがゆえに、一切の経教とその功徳が雲集しているとの御断言なのであります。大聖人こそ宇宙第一の本源の仏であられることが、ここにも明確であります。
 「法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし」――この一節は「実践」ということの偉大さと、難を受けることの重大さをお示しです。
 実践は、言うまでもなく宗教の生命であります。あらゆる宗教をはじめ、一切の思想、哲学の究極の使命は、一人の人間を救うかどうか、事実として何人の人々を救ったかどうかにある。
 どれほど高邁な説を掲げようとも、博学を誇ろうとも、六難九易という現実の中で実践しぬく事実には、はるかに及ばないし、その実践があって初めて、成仏への大道が開けるのであります。
18  ”一人”に光あてる妙法
 ともかく宝塔品の中に、おいて、六難九易の原理が示されていることは、一個の人間の生命の扉を開き、そこに抜本的蘇生の光源を送りゆくことが、いかに困難であり、いかに偉大な法理であるかを説かれたものといえる。九易とは物理的困難を象徴したものと拝せる。また六難とは、生命の世界に分け入っていくことの戦いの至難さを述べられたものであり、胸中を制覇しゆくことが、いかに困難であるかを示した原理なのであります。
 ゆえに、日蓮大聖人は、この六難九易を引かれながら「今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ」とも述べられていることを、深く銘記していただきたいのであります。
 この六難九易の原理を、単なる譬え話や主観的な心情、決意といった次元で受け取っていてはならない。真実の仏法運動であるならば、必ずそうした困難をともなうという客観的事実を、未来永久の戒めとして仰せなのであります。
 私は以前、六難九易の原理的客観関係について触れたことがありますが、我々の運動は一人の人間を徹底して大切にし”悩める一人””嘆きの一人”をどう救っていくかが眼目であります。こうした人間観は、すべての人々を数の中へ組み込み、権力による支配、統制下におこうとする人間観とは逆であり、方向を異にするのであります。ゆえに、権力というものは、そうした運動には、常に過敏なまでの警戒心を働かせており、そこに、相拮抗する緊張関係が生ずることは、必然であります。原理的客観関係とは、そのことを言うのであります。
19  さて過去の宗教の歴史を振り返ってみても分かるとおり、そのほとんどの宗教というものは、支配階層に直結し、あるいは権力の中に組み込まれ、その下僕の存在となるような忌まわしい道をたどってきた。しかし今、ここに説かれる宝塔品においては、一人の人間の無限の可能性をいかに引き出し、輝かせていくかの原理を明かしている。この一個の人間の内面世界を徹底して照射し、そこに自在の生命的境涯を会得せしめていこうとする方途からしでも、仏法がいかに革命的な原理であるかお分かりでありましょう。宝塔品の中で六難九易が取り上げられた真の意味も、この一点にあるわけであります。
 かつて、オーストリアに初めて鉄道が敷かれた際、当時の新聞によると、人々の反応は次のようであったそうです。
 「……ウィーンの新聞は恐怖と不吉な予言でわきたった。鉄道王ロスチャイルドは十八世紀的に平和な国に二十世紀の悪魔をおしつけたと非難された。人間の呼吸組織は一時間十五マイル以上の速度にたえられないから、肺は虚脱状態になり、循環器はこわれる。旅行者の鼻、目、口、耳から血が迸りでるに違いない。六十ヤード以上の長さのトンネルは、客車のすべての乗客を窒息させ、汽車は他の出口から運転者のいない霊枢車となってでてくるだろう」と。
 今からみれば笑い話のようなことが、本気で論議されていた。このように、一般世間の目というものは、未知のものに対して、本能的な不安感を持っているのであります。また、権力の習性は、こうした一般の心情、心理を巧妙に利用しつつ、支配の網を広げてくるのが常であります。ゆえに、民衆の賢明さを開発することが仏法運動の成否を決するといってよい。
 ともあれ、我々の未聞の運動が、対抗する力の存在なしに進むわけがありません。釈に「惑耳驚心」と説かれているとおりであります。だからこそ、世間の常識や良識を内から輝かせていく労作業が必要とされるわけですが、それと同時に、私達の仏法運動には必ず難があることを、永遠に心にとどめていきたい。
 皆さんは、内には、この六難九易の原理を確信し、いかなる諸縁にも幻惑されることなく、物事の奥底を見極めつつ、外にあっては春風のごとく、地域の柱の存在として活躍されますようお願いいたします。

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