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日蓮大聖人・池田大作

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題目を流布し御本尊を建立  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

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45  「日蓮が大事の法門」ということについては、講義の最初で述べたとおりです。仏法の肝要であり、末法流布の大法は何かということ、大聖人が末法の御本仏であること、更に大聖人の弟子の信心の在り方はいかにあるべきか等、まさしく大聖人の仏法の大事が凝縮されております。ゆえに「よくよく見ほどかせ給へ・心得させ給うべし」と念をおされているのです。
 「よくよく見ほどかせ給へ」とは、深く理解していきなさいということです。「意得させ給うべし」とは、生命に刻んで、この御書どおりの振る舞い、実践をしていきなさいとの御教示です。「一閻浮提第一の御本尊」です。大聖人の仏法が一閻浮提第一であり、大御本尊がその肝要中の肝要であることは、絶対に間違いありません。
 あとは我々の信心です。ゆえに「あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て」です。
 信心は、成り行きでいつか深まってくるものではない。「あひかまへて」とは、発心をしなさいということです。何があろうとも、よし、これを転機に御本尊根本に一歩前進していこう、という勇敢な信心が大切です。その信心のあるところ、釈迦、多宝、十方の諸仏の守護が、厳然と働きをあらわしてくるのです。
 自身にあっては、仏界の涌現という、最も根底的な生命の変革がなされるというのが、釈迦仏の守護にあたります。功徳に満ちあふれた生活の実証が多宝如来の守護です。十方の諸仏の守護とは、周囲の人々が正法に目覚め、相互に尊敬しあっていく、理想的な人間共和の社会が現出するということです。
 「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず」以下は、しっかり暗記していただきたい。この御文の「行学」ということについては、様々な機会に申し上げてきました。そこでここでは、ただ一点だけ申し上げておきます。
 それは「行学たへなば仏法はあるべからず」ということです。仏法は行学の中にある。行学の実践をする人間の振る舞いの中にあるということです。経文や書物や文字の中にあるのではない。仏法は、御書を学び、大聖人の教えどおりに実践する一人一人の生命の中にあらわれるのです。
 その仏法の大運動を展開している人間と人間、信心と信心の錬磨向上の中にこそ、現実における仏法直道の脈搏があることを知らなければなりません。「我もいたし人をも教化候へ」――自行化他の信心です。自分だけ信心していればいいというのは、大聖人の仏法の本格派の実践者ではない。自分も実践し、人にも教え、伝えていくのです。
 「行学は信心よりをこるべく候」――行学の基となるのは信心です。逆に言えば、信心は必ず行学とあらわれる。この信・行・学の三つが、大聖人の仏法の実践の永遠の規範なのであります。
 「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」――随力演説で、自分の境遇で、自分の全力を出して折伏し、一文一句でも仏法を語っていきなさい、ということです。
46  ”一切衆生を救う”との大確信
 追申候、日蓮が相承の法門等・前前かき進らせ候き、ことに此の文には大事の事どもしるしまいらせ候ぞ不思議なる契約なるか、六万恒沙の上首・上行等の四菩薩の変化か、さだめてゆへあらん、総じて日蓮が身に当ての法門わたしまいらせ候ぞ、日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属けんぞくにもやあるらん、南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女を・みちびかんとおもへばなり、経に云く一名上行乃至唱導之師とは説かれ候はぬか、まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給う、此の文あひかまへて秘し給へ、日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ、とどめおわんぬ    最蓮房御返事
 追伸、日運が相承の法門等については、前々から書き送った通りである。更に本抄には、最も肝要な法門等をしたためである。こうしてみると、あなたとは仏法の奥義について語り合う約束があったのであろうか。涌出品に現れた六万恒沙の上首である上行等の四菩薩の一員であろうか。さだめで深いわけがあるのであろう。あなたには、総じて日蓮が身にあたる法門をそのまましたためておいたのである。日蓮はもしかしたら六万恒沙の地涌の菩薩の眷属の一人であろうか。南無妙法蓮華経と唱えて、日本国の男女を導こうとしているからである。涌出品に「本化の菩薩の中に、四人の導師がいる。第一を上行といい乃至唱導の師である」と説かれているではないか。あなたは誠に深い宿縁によって私の弟子となったのである。この文をしっかりと胸中深く秘して心肝に染めていきなさい。日蓮が己心に悟った法門等を書き付けた重書である。以上をもってとどめる。
   最蓮房御返事
47  冒頭の部分については、講義の最初に触れておきました。最蓮房に対しては、「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」「祈祷抄」等、ずいぶん重要な法門をしたため、与えられております。なかでもこの「諸法実相抄」は、最も肝要な法門をしたためた、と仰せです。そして、こうしてみると、あなたもずいぶん不思議な人であると仰せです。末法御本仏である日蓮大聖人の身に当たっての法門、御本仏の御境界、実践をそのまましたためた御書をいただいている。きっと、地涌の菩薩の一員として、末法広宣流布に重要な使命を担っている人であろう、ということです。
 「日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん」とは、御謙遜のお言葉です。この背後には、外用は「一名上行乃至唱導之師」であり、本地は久遠元初の自受用身如来であり、末法の御本仏であるとの御確信が込められております。
 「南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女を・みちびかんとおもへばなり」――日本国と仰せでありますが、意は一閻浮提であり、未来永遠の衆生です。末法において南無妙法蓮華経によって、一切衆生を救わんとされた方は、日蓮大聖人しかおられない。ゆえに、大聖人が地涌の棟梁であり、末法の御本仏であられる。
 「まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給う」――重ねて宿縁の不思議を述べて、使命の自覚を促されております。
 最蓮房に与えられた他の御書に、次のような一節があります。「只今の御文に自今以後は日比の邪師を捨てひとえに正師と憑むとの仰せは不審に覚へ候」――すなわち、最蓮房が日蓮大聖人にお手紙を差し上げて「これから以後は、これまでの邪師を捨てて、ただひたすら日蓮大聖人を正師とたのんで、仏道修行に励んでいきます」と誓いの言葉を述べたのです。これに対して大聖人は「不審に覚へ候」――あなたは、不思議なことを言いますね、と言われている。
 なぜ、このように言うのかということについて、続いて述べられているのですが、要約すれば「あなたとは、もともと師弟だったではないか。いま初めての契りではない。偶然の巡りあいではない」と述べられているのです。
 実は、この「不審に覚へ候」ということに、重大な仏法上の意味があります。最蓮房の表現は、表面的、常識的に考えれば、当然すぎるほど当然なのです。しかし、大聖人は三世にわたる仏法の達観のうえから、深く掘り下げられて、仏法の師弟を論じられたのです。
 私どもの立場において言えば、今世においてたまたま大聖人の仏法に巡りあえたと思うべきではないのです。もともと日蓮大聖人との師弟の絆によって結ばれた私達なのです。私達仏法兄弟もまた久遠よりの同志であり、兄弟でありました。それが、様々な姿、形をとりながら、この世に再び集いきたって、日蓮大聖人の末弟として広宣流布へと使命の道を歩んでいるのです。
 更に言えば、久遠は今にあり、今は久遠であります。ゆえに、現在に久遠の契りを結ぶ我らは、永遠に仏法兄弟の道を歩んでいくことを自覚したい。先の御文にも「三世各別あるべからず」とありましたごとく、現在の姿は久遠を映しだし、未来の私どもの姿を生命の鏡に浮かばせていることを確信します。
 ゆえに、ともどもに尊敬しあい、学びあい、励ましあい、異体同心の輪を広げていこうではありませんか。
 したがって、皆さん方も「まことに宿縁のをふところ」信心できたのです。それだけの力があり、それだけの責住があります。「この世で果たさん使命あり」です。
 「此の文あひかまへて秘し給へ、日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ、とどめ畢んぬ」――「秘し給へ」とは、一つには、当時の人々には大聖人の仏法の真髄が分からない、いたずらに不審を起こさせてはならないとの御配慮です。またしっかりと生命に刻み、とどめなさい、ということであります。
 「己証の法門」――大聖人の己心に悟った法門を書きつけた重書であることを、最後に述べられて、本抄を終わられております。
   (昭和五十二年一月「聖教新聞」掲載)

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