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日蓮大聖人・池田大作

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豊かな人間学の宝庫 司馬遷『史記』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
4  将に将たる器たれ!
 さて『史記』は、どこから読んでも面白いが、日本人の間で最もよく読まれたのは漢楚の戦いを描いた「項羽本紀」と「高祖本紀」の巻であろうか。
 中国では初の統一帝国を築いた始皇帝の没後、あっけなく秦は滅んでしまった。このあと天下の覇権をめぐって若き項羽(前二三二年〜前二〇二年)と劉邦(前二四七年〜前一九五年)との間で壮絶な戦いが繰りひろげられた。
 二人の戦いは史上屈指の激戦で、前後八年にわたって天下を争った。項羽は七十余戦して連戦連勝したが、最後の勝利を収めたのは劉邦(漢の高祖)である。詳しい経過は『史記』に描かれるとおりだが、二人の比較対照が見事である。
 前二〇二年、天下は大いに定まり、漢軍は洛陽の南宮において酒宴を開いた。戦勝祝いである。そのとき漢の高祖・劉邦は、部下に対して言った。
 「列侯諸将ょ、朕にかくしだてせずに、ありのままにいってもらいたい。朕が天下を取った所以は何か、また、項氏が天下を失った所以は何か」
 時に高起・王陵が、つつしんで答えた。
 「陛下は人々に城を攻め地を平定させては、降服したものがあると、その事にあたったものにこれをあたえ、天下の人々と利を同じくなさいました。ところが、項羽は、賢者を妬み、能者を嫉み、功ある能者は害めつけ、賢者に対しては疑いました。戦い勝ってもその功を人にあたえず、地を得てもその利を人にあたえませんでした。これが、天下を失った所以であります」
 項羽は功を独り占めしたのに対し、高祖は論功行賞を公平に行ったというのである。まさに衆目の一致する見方だった。ところが高祖は、それだけではないと言う。
 「そもそも、籌策はかりごとを本陣の雌帳の中でめぐらし、その結果、勝ちを千里の外に決する点では、わしは子房(張良)におよばない。国家を鎮め、人民をなつけ、食糧を供給して糧道を絶たない点では、わしは蕭何しょうかにおよばない。百万の軍をつらねて、戦えばかならず勝ち、攻めればかならず取るという点では、わたしは韓信におよばない。この三人はみな人傑である。わしは、この三人をよく用いることができた。これが、わしが天下を取った所以だ。項羽にはただ一人の范増はんぞうがあったが、それを十分に用いることができなかった。これが、わがとりことなった所以なのだ」
 先に「謀を帷帳の中に回らし‥‥」との『御書』の一節を拝したが、その出典は、ここにある。ちなみに張良は劉邦に用いられた名参謀、范増は項羽側の参謀だった。また蕭何は漢の名宰相で、韓信は「背水の陣」を布いたことで知られる武将だった。いずれも傑出した人物だが、劉邦は彼らをよく用いたところに勝因があったという。
 また項羽は暴虐でつねに怒り、ために人心が離れてしまった。それに対して劉邦は寛容な人柄で情けあり、施しが好きで、心はカラッとした性格だったと、司馬遷は分析する。
5  戸田先生は、よく語っておられた。
 「まさに『卒に将たるは易く、将に将たるは難し』だ。学会の青年は、この『将に将たる器』にならなければならない」と。
 この件も『史記』「淮陰侯わいいんこう列伝」に出ている。
 ──漢が天下を平定した翌年、楚王に封じられた功臣・韓信に謀反の嫌疑がかけられた。そこで高祖は、諸国を巡幸することに事よせて楚へ向かった。
 韓信にしてみれば、とがめられる罪はないつもりだったが、兵を発して謀反しようかとも思った。だが彼は、かつて青年時代にある少年から辱められ、股をくぐらされたこと(「韓信の股くぐり」として有名)があった。それを思い出したのであろうか。このときもよく忍耐して謀反を思いとどまり、高祖に謁見して縛についた。
 「そなたの謀反を密告した者があるのだ」
 そう高祖は言った。かくして韓信は罪人として洛陽に護送されたのち、赦されて王から位をさげられ、淮陰侯とされた。
 ある日、高祖は寛いで韓信と将軍たちの才能を語り合い、それぞれに等級をつけたことがある。高祖は、韓信に問いかけた。
 「わしなどは、どれだけの兵に将たることができるだろうか」
 「陛下は、まあ、十万の兵に将たるにすぎません」
 「そなたはどうか」
 「わたくしは、兵が多ければ多いほど、ますますよろしいです」
 高祖は笑って言った。
 「多ければ多いほどますますよいというのに、どうしてわしのとりこになったのか」「陛下は兵に将たることはおできになりませんが、将に将たることはおできになります。これが、わたくしが陛下の禽にされた理由です。その上、陛下はいわゆる天授の才能を受けておられまして、人力の及ぶところではありません」
 この条、韓信の皮肉とみるか、あるいは慢心の言とみるか、さまざまに解釈されよう。だが韓信はその後、数年にして実際に謀反を企て、捕えられて斬殺の刑に処せられた。さらに三族まで諒殺されたというから、かなり厳しい処罰である。
 韓信に対する司馬遷の評価も厳しいものであった。要するに韓信は謙譲でなく、おのれの功を誇り、天下が安定してから謀反を企てた罪は重いというのである。
 戸田先生も、よくおっしゃっていた。
 「人生は、最後に勝っか負けるかだ」と。
 ともあれ、今でも私は『史記』を読みかえすごとに、恩師戸田先生の指導を思い起こす日々である。

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