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日蓮大聖人・池田大作

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独立自尊の意気高く 福沢諭吉『学問のすめ』『福翁自伝』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
15  演説とは英語にて「スピイチ」と云ひ、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思ふ所を人に伝るの法なり。(中略)西洋諸国にては演説の法最も盛にして、政府の議院、学者の集会、商人の会社、市民の寄合より、冠婚葬祭、開業開店等の細事に至るまでも、僅かに十数名の人を会することあれば、必ず其会に付き、或は会したる趣旨を述べ、或は人々平生の持論を吐き、或は即席の思付を説て、衆客に披露するの風なり。此法の大切なるはもとより論をまたず。
16  このように諭吉は「スピイチ」の重要性を説いた。大いに人前で演説することこそ「独立」「自由」「民主」の原点であると主張したのである。
 何事も実行の人である彼は、さっそく明治七年(一八七四年)、慶応義塾内に「三田演説会」を開いた。最初は弁論大会のようなものだったが、これを盛んにするため翌年、義塾内に「三田演説館」を建て、公開の演説会とした。諭吉自身も演壇に立ったのはいうまでもない。ちなみに、この「演説館」なる建物は日本最初のものとされ、今は各地に見られる「公会堂」、あるいは「文化会館」などの嚆矢こうしともいえよう。
 明治十五年(一八八二年)三月一日、福沢はまた中立不偏の新聞「時事新報」を創刊した。独立自由の言論の府である。彼は、みずから社説の筆を執ってもいる。同月十一日、彼は三田の演説館で演説した。その演説をきいた聴衆のなかには、昂奮のあまり卒倒する者も出たという。さっそく演説筆記が「僧侶論」と題して「時事新報」三月十三日付の社説となった。肉食妻帯した僧侶の腐敗堕落、腰抜けぶりが痛撃されている。
 百年後の今日でも彼の「僧侶論」さながらの姿が見受けられる。百年たっても封建遺制のくびきは取り去られていないのだ。今なお福沢諭吉の著作がひろく読まれる所以であろうか。

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