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日蓮大聖人・池田大作

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教育に賭ける情熱 ぺスタロッチ『隠者の夕暮・シュタンツだより』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
7  ことに「彼等」というのは、シュタンツの孤児院に学ぶ児童たちのことである。ときに五十三歳のペスタロッチは、一切の名声を抛って貧しい孤児の父親となった。
 だが、その孤児院は、開院後わずか半年にして世間の非難の集中砲火を浴び、閉鎖のやむなきにいたっている。その半歳の経験のなかに昇華した教育方針を、彼は一友人に宛てた手紙として執筆した。それが『シュタンツだより』となったのである。
 その後、ペスタロッチは八十一歳の生涯を閉じる日まで、各地を転々としながら、著作と学園経営に没頭している。彼は教育の理想のみを追究したのではない。みずから泥にまみれ、ときには農夫となって田園を耕し、生活の糧を得た。
 著作によって得た印税は、すべて学園の経営に注ぎこんだ。理想と現実の葛藤の茨を切りひらいて進んだが、幾度となく失敗を繰りかえしている。そのつど非難中傷の矢は雨のように浴びせられたが、己の信ずる道を決して曲げることはなかった。
 しかし存命中は、祖国スイスでは冷遇されたようだ。むしろ、この国を訪れる幾千の人士がペスタロッチの学園に殺到するのを見て、人びとは不思議に思いさえした。
 彼の教育理念は、まず隣国のプロシア、すなわち今日のドイツにおいて重く用いられる。近世以来、ドイツは教育立国をもって国是としてきたからである。
 やがてオランダ、デンマーク、スウェーデン、フランス、そしてイギリスの多くの都市からも、はるばるぺスタロッチの学園に学ぶ教育志望者がやってくる。彼らは何カ月も学園に滞在し、新教育を研究して帰っていった。
 こうして祖国スイスの厳しい風雪に耐えた一粒の種子は、まずプロシアの大地に移植され、そこから全ヨーロッパの各地に広がっていった。ぺスタロッチの学園に学んだ弟子の一人は、その種子をアメリカの新大陸の地にも運び、近代教育の発芽としていったのである。
8  教育こそ一国の死命を制するほどの大事業である。戦前の日本は、皇国史観による軍国主義教育によって、大きく道を踏みはずしてしまった。それによる犠牲──失われた多くの若い生命は、決して取り返すことはできまい。
 第二次大戦によって、ドイツもまた日本と同様に、敗戦国の憂き目をみた。だが、教育制度に関しては、占領軍によって押しつけられた政策を、きっぱりと拒絶したといわれている。
 「ドイツは、自分の国の教育は、自分たちでやるといって突っぱねた。えらい、このくらいの襟度があってしかるべきだ」
 かつて教育者でもあった戸田先生は、当時の青年たちと懇談の折、よくこのような話をされたものである。
 未来社会を担うものは、いうまでもなく青年であり、その後に陸続と続くであろう少年少女であることはまちがいない。生涯、苦難のなかを、誰よりも青年を愛し、人間教育の得がたい財宝を残してくださった戸田先生のなかに、ぺスタロッチのイメージがつねにダブって私の脳裡にうかぶのである。

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