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日蓮大聖人・池田大作

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現代を超越する精神 高山林次郎『樗牛全集』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
6  今の世の凡俗に飽きたるものは、願はくば是の篇を読め。日本は如何に堕落するとも、吾人は其の同胞に日蓮上人を有することを忘るゝ勿れ。彼れの追懐は力也、信念也。諸君、若し学究先生の所説を聞くの余暇あらば、吾人と共に是の一大偉人を研究せざるべからず。
  
 これは明治三十五年(一九〇二年)四月、樗牛が雑誌「太陽」に発表した「日蓮上人とは如何なる人ぞ」と題する一文の書き出しである。
 彼はこの年の十二月に、彗星のように世を去っていくが──もはや病床にあって喀血を繰りかえしながらの執筆である。
 今、あらためて読みかえしてみると、生死の境を往還していた彼は、まるで読者に遺言でも語るかのように、懸命に大聖人の生涯を鑽仰してやまない。そこには、軽薄な言辞は少しも見られなかった。必死の姿勢が全篇を貫いているといってよい。
 思うに樗牛は、生涯求道の人であった。鋭敏なる感覚の持ち主であった彼は、永く一カ所に安住していられなかったのであろう。次々と新思潮を展開していった。
 樗牛の全集には「吾人は須らく現代を超越せざるべかららず」という言葉が、表紙に金文字で箔押しされている。つねに時代に先んずる進取の精神を表現したものといえよう。
 世に出てからの十年間は、ひたすら前進につぐ前進の、挑戦の人生を歩んでいる。坪内遺遁や森鴎外、そして内村鑑三といった大家に対しても、果敢な論戦を挑んでいる。ときには若さゆえの無謀な主張も散見されるが、それは青年の客気がなさしめたものかもしれない。
 最後の一年間は、居を大聖人ゆかりの地である鎌倉に移し、そこで大聖人の「書」を精読したりする明け暮れであったようだ。あるときは、大聖人の種々御振る舞いに感泣しつつ、生命と生命との対話のなかに、宇宙生命の実在の妙法に肉薄していった。
 その果てに彼は、日蓮門下の六老僧のなかでも、日興上人の法統こそ正流であることを、知るにいたった。死の寸前に発表した「予の好める人物」という連載物の最後には、日興上人と日持の事績を挙げている。
 ただ惜しむらくは、この天才的詩人の生命は、もはや燃えつきようとしていた。彼は三十一歳の短くも充実した人生の松明を、高々と掲げて逝ったのである。
7  私もまた樗牛と同じく、二十代に胸を病んで、とても三十まではもつまいと言われた身体。そのことで、いつも戸田先生には、ご心配をかけどおしであった。
 「おまえも長生きできない身体だな。できることなら、私の生命を削って、お前にあげたい──」
 そう先生に言われたとき、思わず胸の焼きつくような想いが、こみ上げてきたものである。
 また、先生が亡くなられる半年まえのことであった。──二十歳のときから先生の側近くに働いて十年間、どうにか私の身体も持ちこたえそうな気配もあった。
 だが、そのとき先生は大患を病み、戦時中の二年間の獄中生活と戦後の激闘のために、いたく憔悴せられていた。時折、遺言めいた言葉を、ふと洩らされた後に、厳しい表情でおっしゃられたのを今でも忘れない。
 「君は妙法の高山樗牛になれ! 彼は三十一歳で死んだが、君は生きぬけ。絶対に、わたしの後継として生きぬけ!」
 そのときから私は、生きぬく決意をさらに強靭なものとした。そして、恩師の遺訓をすべて実現するための闘いを、人知れず胸に秘めて開始したのである。

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